ねえ、コウ。ねえ、コウ。ねえ、ねえ。


 ムイはぼくになにかを訊ねるとき、必ず初めに「ねえ」と言った。だがその声色は、なれなれしい感じとも甘える感じとも違う。葉の上に光る朝露が人知れず水面に滴るがごとく、曖昧でさりげないものであった。


 そしてぼくは彼女に、ねえ、と呼ばれるたび、あの思春期特有の、理由のない胸の痛みに襲われた。


 その日も図書館の片隅で、彼女は少し得意げな表情とともに言った。


「ねえ、あなたは神様が実在すると思う?」


 ぼくは、はっとして彼女のほうを見た。黒い大きな瞳がこちらに熱心な視線を送り、うっすらと血潮の色の浮かんだ唇の端が、妖しげに吊り上がっていた。そうして、その薄桃色の唇と病人特有の彫刻のような白い肌とのコントラストが、彼女をあえかに美しく見せていた。


 そんなプライベートな話を、こんなところでするなんて。ぼくは周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから答える。


「神様は誰の頭のなかにも実在する。ぼくたちはまだ子どもだから出会ったことがないだけで、大人になれば補助コンピューターがぼくやきみだけの神様を用意してくれるさ」

「そんなものは神様じゃない。あなたの言う神様はコンピューターによって生み出されたハリボテ。私たちに空虚な信仰を押しつけるペテン師よ」

「それじゃあ、きみの思う神様はどういう存在なんだ? そして、その……きみが思う信仰とはどんな形なんだ?」


 するとムイは机の上に身を乗り出して、小さな顔をぼくの顔へと近づける。


「私が思う信仰の形はね、触れ合いなの。神様はその触れ合いのために用いられるツール」


 寄せては返す波のように、彼女の顔がぼくの目の前を行きつ戻りつ、揺れる。そうして額と額が、目と目が、鼻と鼻が当たるくらいの近さまできたところで、彼女は唇だけをふるわせて「触れ合い」と繰り返した。


 ぼくは慌てて彼女から顔を離す。


「触れ合い?」

「そう」ムイは頷いた。「前時代の宗教を信じていた人たちは、触れ合いを求めていたんだと思うの。教えを通じて神様と触れ合い、そして神様を通じて別の誰かと触れ合う。大事なのは触れ合い。それを求めて、人は祈り、歩き、踊り、ときに爆弾を自分の身体に巻きつけた」

「それじゃあ、ぼくらがいつか手に入れる信仰は、きみの思い描くものとは違うね」

「あんなものは信仰とは呼べないわ。魂の触れ合いがないもの。コンピューターがつくり出した疑似映像を個人的に崇拝するなんて耐えられない。みんな、どうかしてる」


 彼女はようやく身を引いて、椅子の背に深くもたれた。熱弁を振るっていた彼女の紅潮した頬が、みるみる色を失って彫刻の白さを取り戻してゆく。


 どうかしてる。ムイはそう言ったが、大人たちの目には彼女のほうこそどうかしているように見えるはずだ。なぜならば、彼女の発言は補助コンピューターの与えるあらゆる恩恵、すなわち現代社会の基盤そのものを否定しているのと同義だからだ。補助コンピューターのなかった時代、生得的な涅槃を持たない人々は人生におけるさまざまな場面で涙を流したのだという。しかしいまでは赤子でも泣くことはない。脳を切除できない赤子でさえ、外付けの補助コンピューターによって知の恒常性プログラムのぬくもりを得られる。


 そうした幸福な社会に向けて、彼女はどうかしてると言っている。ならば彼女は、涙を流したいというのか。


 しかし、かくいうぼくも『魂の触れ合い』というものに惹かれていた。その言葉はひどく抽象的で曖昧なものと思われたが、同時に非常に多くの意味を有しているとも思われた。また、どことなく秘密の儀式めいた響きをもはらんでおり、この心はすっかり言葉の魔力に囚われてしまっているのだった。


 ぼくはムイに訊ねる。


「きみが言う魂の触れ合いを行うには、どうしたらいい?」


 彼女は言う。


「魂の触れ合いを行うには、補助コンピューターを壊さなければ。でも、この頭のなかにあるコンピューターを砕いたとき、私は私のままでいられるかしら……」


 そのとき彼女が浮かべたのは、生の衝動と死への憧憬が入り交じった、妖しくもゆかしい微笑みだった。




 夏。山々は青葉の帷子かたびらを羽織り、炎昼の日差し注ぐ麓には蝉時雨が降りしきっている。山肌露わな中腹の斜面をゆったり歩む親鹿とその後ろをおぼつかぬ足取りでついてゆく仔鹿の姿が御堂から小さく見え、またふと庭に目をやれば、芙蓉が薄桃色の花を飾っている。


 夏の盛りである。


 どこからか漂う打ち水の香りに涼やかな気持ちを味わっていたぼくは、ふと背後に人の歩み寄る気配を感じて振り返る。そこには平生のとおり険しい表情を浮かべたわが師、くうが静かにすわっていた。


 師は言う。


「その心や春の朝の霞を越えたか」


 師の澄んだ黒い瞳がこちらに向けられる。それは心の奥底を透かし見る悟りの目であった。ぼくらが発揮しているような、人工的に生み出された疑似的悟りではない。長きにわたる修練の蓄積によってもたらされた無相の境地が、師の瞳からは垣間見られた。


 ぼくは答える。


「わかりません。しかし、歩みを止めてはいません。いま目の前にのびる道の先にはなにかがある。そう信じて歩んでいます」


 研究所の地下サーバー室で死者の魂を多く殺し、自分も死にかけて、目覚めたあとにはまた死者の魂をこの手にかけた。ぼくは自分の両手を見た。ガダルカナルで、ナイジェリアで、中央アフリカで、そしてこの街で。この手は多くの命を奪いすぎた。任務のために人を殺しているのか、人を殺すことが任務なのかわからなくなるときもあった。だがそれでも、いつかなにかを手に入れられると思ってここまでやってきた。


 そしていま、そのなにかがすぐ目の前にあるのをぼくははっきりと感じている。


 転生者たちの問題は、それについて考える者を否応なく死生観の迷路に引きずりこむ。転生者と向き合う者は、そして彼らに向けて引き金を引く者は、自分の魂について問わずにはいられないのだ。この魂はいずこに、この魂やいかに。魂にまつわる自問自答はぼくらを無知なる哲学者に仕立て上げてゆく。


 その流れに終止符を打つためには、転生者と魂の問題にかんする答えを得なければならない。他人と違っていてもいい。とにかく自分なりの、たった一つの答えを。ぼくはいま、それを得るために転生者たちの拠点、猿島へ向かおうとしている。そこに求める答えがあることを、そしてこたびの任務がぼくの人生における一つの転機になることを信じつつ。


 すると師は、長い沈黙のあとで口を開く。


「あらゆる物事はあるべき姿で存在するのみ。ゆえに物事の在り方に真実を求めるな。肝心なのは物事をおまえがどう捉えるかということだ」

「どう捉えるか、とは?」

「フム」師は低く唸った。「おまえは自分が死ねば天国に行くと思うか。それとも地獄に行くと思うか」

「私は天国や地獄というものを信じていません」

「では、おまえの大切な人間が死んだとする。その者に天国に行ってほしいと思うか」

「それはもちろん……」


 そこでぼくは言葉に詰まった。自分が矛盾した発言をしようとしていることに気づいて。


「それが捉え方というものだ」師は言った。「たとえば暑くもなく寒くもない日があったとして、それが春の日であるならば人は暖かいと感じ、秋の日であるならば涼しいと感じるだろう。だがどちらも間違いではない。正解は一つとは限らない」


 それから師は庭に出て、愛でるように芙蓉の花に優しく触れた。


「すべては捉え方次第だ。おまえなりの捉え方を見出せ」

「はい」


 頭を下げ、立ち上がろうとするぼくを師は引き止める。


「夏の昼の日は影を露わにしてくれるが、同時におまえの身体を焼き、目をくらませるだろう。気をつけて歩め」

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