第二部『夏・昼・日』


 ぼくが六道ムイと出会ったのは十二年前の八月。台風が過ぎ去ったあとの、雲一つないからりと晴れた日のことだった。


 その日、母からの言いつけでぼくは朝から庭に散乱した屋根瓦や木の枝葉を集めていた。故郷の長崎には毎年のように台風が訪れていたが、この年にやってきたのは例年に類を見ぬ大型のものであった。幸いわが家は被害を免れたが、周囲の家々のなかには屋根の下地が露わになっているものも数多くあり、また表の通りなどは車も往来できぬほどに物で埋め尽くされているありさまだった。


 かんかんと照りつける太陽のもと、タオルを首に巻いて庭の清掃をしていると、背の高い垣の木々の隙間から、ぽつねんと立つ少女の影を認めた。こちらに背を向ける彼女の、その長い髪が風になびくシルエットに惹かれてそっと表に出たぼくは、太陽を見上げる少女の姿を見つけた。


 白いワンピースに薄茶色のミュールという清掃を行うのに似つかわしくない恰好の彼女は、長い木の枝を手に、なにをするわけでもなく立っていた。いっぽうぼくは、ワンピースの生地よりもなお白いのではないかと思われるほど透きとおった彼女の肌に目を奪われ、ほうけた表情を浮かべていた。まるで景徳鎮かそこらの、年代物の白磁のようだ。美しくもあるが同時に無機物的でもある、病的な色調を湛えた肌だと、そのようなことを考えながら。


 すると少女が視線に気づき、こちらを振り向いた。ミュールの踵が足元の瓦の破片に触れて、かちりと音を立てる。


「きみはここの近所の人?」


 ぼくが問いかけると、少女は小さく頷いた。


「最近、越してきたばかりなの。九州は空気が綺麗だから私の身体にもいいだろうって、お医者様に言われて。でも知らなかった。台風ってあんなにおそろしいものなのね。関東のほうには滅多に来ないから」


 それから彼女はこちらに少し近づいて、ぼくの顔をまじまじと見つめた。まるで値踏みをしているかの如き厳しい眼差しだった。それも外見ではなく内面を見抜く眼差し。魂の値踏みをするみたいな目だ。


「ねえ」ひとしきり観察を終えてから、彼女は言った。「あなた、名前はなんというの?」

有情うじょうコウ。『情』が『有る』の有情に、カタカナのコウ。きみの名前は?」

「私は六道りくどうムイ。『六つ』の『道』に、カタカナのムイ」


 六道ムイ。独特な響きだ。ぼくはそのようなことを考えながら、彼女の顔と名前を補助コンピューターのアーカイブフォルダに保存した。登録対象名称、六道ムイ。性別、女性。関連する思考、『独特な響き』『無為自然むいしぜんの無為』『だけど、ムイはカタカナ』。




 六道ムイは不思議な魅力を持つ少女だった。美しいのに棘があり、棘があるのに柔らかい。重い病に侵されているという話だったが、知的好奇心が旺盛であり、明朗であり、ときには憂いに満ちて、辛辣でもあった。


 つまり彼女は健全かつ正常な一般市民よりもよほど人間的であった。そして同い年であるぼくよりも少し大人びていた。


「ねえ、あなたは自分の意識の存在を信じている?」


 ある日、彼女はとつぜんぼくにそう訊ねた。喫茶店の二人用の客席で、外はどしゃ降りの雨だった。


 彼女はときどきこのような哲学的な問いを投げかけてきては、ぼくを困らせた。このときだってぼくは問いの意味をしばらく考え、やがていくら考えても彼女の真意を把握できないことに気づいて、諦めとともに口を開いた。


「意識ならある。ぼくはこうしてここにいて、きみと話をしているし……」

「でも、いま私と話しているあなたの意識は、本当にあなただけのものなのかしら。あるいは、あなたと話している私の意識は……」

「それはいったいどういう意味?」ぼくは首をかしげ、訊き返した。「きみの言うことは興味深いけれど、ときどきぼくの理解を大きく超えてしまう」

「単純なことよ」ムイは人差し指で自分の頭を指し示す。「私たちは物心がつくより前に、脳内に補助コンピューターを埋めこまれる。そしてその瞬間から、外部から入ってくる情報の多くをコンピューターに演算処理させ、記憶させている。それだけじゃない。補助コンピューターに搭載されている知の恒常性プログラムは常に私たちの感情を管理し、制御している。自分の脳を甘やかし、これほどまでコンピューターに依存している人間の意識は本当にその人だけのものだって言えると思う? あなたは自分の意識が、コンピューターのつくり出したものではないと胸を張って宣言できる?」


 それはいつになく鋭い問いであり、ぼくはそれに答えることができずにうつむくほかなかった。彼女の言うようなことなど、いままで考えてもみなかった。この自分の意識、あるいは自我と呼べばよいのかわからないが、それが補助コンピューターの生み出した作り物であるなどということは。


 いや、おそらくは彼女のほうが特殊であり異常なのだ。この世界に生きるほとんどの人々はぼくと同じく、幸福な愚かさによって自らの意識の正体など気にもとめないだろう。だが彼女はそうした自己内部の矛盾に対して敏感であり、しばしばその矛盾をぼくに指摘してきた。しかも、さもそうするのが当然であるかのように。なぜぼくと同じ十六歳だった彼女にそのようなことが可能だったのかについてはわからない。ただもしかすると、重病を持ち他人よりも少しだけ死に近いところに立っているために、彼女は独自の、ある種超然とした視点を手に入れることができたのかもしれない。誰も気づかぬ矛盾を見定めることのできる視点を。


「わからない。ぼくのこの意識が本当に自分だけのものなのかどうか」長い沈黙のあとでぼくは答えた。「でも、こうしてきみと話をしているときに感じる気持ちは、本物だと信じたい」

「あなたって、意外にロマンチストよね」


 ムイは笑った。半ば呆れたように。そして半ば嬉しそうに。


「男はみんなロマンチストなんだ。それよりさっきの問いについて、きみはどう思っているの?」


 すると、ムイの顔からふっと笑みが消えた。


「私にも、わからないの。この問いについて自分なりにあれこれ考えてみるけれど、その考え自体が補助コンピューターのつくり出したものかもしれないと疑わずにはいられない。きっとコンピューターを脳内に埋めこんでいる限り、私たちはこの問いに対する答えを得ることができないんだわ」


 彼女はそっとぼくの顔に手を触れた。額からまぶたへ、鼻へ、頬へ、そして唇へ。有情コウという存在の輪郭を確かめるかのように、彼女は優しく、念入りに指を滑らせてゆく。温かく、柔らかい手だった。ぼくは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。


「自己に確実性を見出せないのなら、外界にそれを求めるしかない。いまの私にとって確かなものは、あなただけなの、コウ」


 それからムイは長いことこちらを見つめ、それからふと手を引っこめると、ひどく憂鬱そうな顔をした。


 なぜこのとき彼女がそんな顔をしたのか、その理由がぼくにはどうしてもわからなかった。


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