6
春。彼方に臨む山々の連なりが、薄桃色の桜をまとい温かな風を受けている。手前にくるほどあざやかに、奥に向かうほど淡く霞みゆくの桜の
ぼくはその絶景を、慎ましやかな御堂の縁側に座して眺めている。
そしてその隣にはわが師―
師は遠く山々を見やりながら言う。
「なにを見ている?」
ゆったりとした、穏やかな口調だった。
ぼくは応える。
「霞の向こう側を」
「なにゆえそれを見たいと思う?」
師の問いかけに、ぼくは深く考える。途切れぬ霞のその向こうを、なぜ見ようとしているのか。そこになにがあるのか。なにがあってほしいと望んでいるか。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「霞の向こうが見えぬからです。見えぬものほど見たくなる。人の
「では、おまえはこれまでになにを見た。見えぬものを、一つでもその目で確かめたことがあるか」
「いいえ。なにも。何度銃を手にしようと、いくつの戦場を駆けようと、私の目は未だなにものも捉えることがない」
思えば、自分はなんのために倫理官になったのだろう。痛みも苦しみもない世界で、なにゆえ命を賭して銃を取るのだろう。そしてそんな身近なことすら見えぬこの目に、いったいなにが見えるというのだろう。
すると、師はやはり山を見つめたまま言った。
「朝は霞、昼は日、夕は雨、宵は月。おまえの心は未だ朝に留まって動こうとせぬ。霞の向こうを見たくば、晴れるときを待つな。おまえ自身が動かねば」
そして師は立ち上がり、草履を履いて庭に出た。静かな背中が、ついて来いと言っていた。ぼくは倫理官のシンボルである一角獣のエンブレムが施されたブーツを履き、師に続く。
飛び石の敷かれた道を進みながら、師はふたたびぼくに訊ねた。
「おまえは霊的存在を信じるか。あるいは生まれかわりというものを、信じるか」
唐突な問いかけに、ぼくはハッとして師の後ろ姿を見た。
師はこちらの答えを待たずに続けた。
「おまえは今日、ある女に言った。肉体が果てれば意識も魂も無に還ると」
「はい、たしかに私は言いました」
「だが、おまえはかつて別のある女に言った。死を待つその女の、やがて生まれかわるであろうことを信じる。そして、生まれかわった女を探し出すと。その女は死に、女の肉体は荼毘に付されてすでにない。それでもおまえは生まれかわりを信じるのか」
ぼくはその問いかけに応えることができなかった。また、師も返事を待っているわけではないと思われた。きっと、彼は問いの形式によってぼくの心のなかにある矛盾を指摘しただけなのだ。
矛盾。相反する二つの考えを持つこと。それは迷いの表象であり、迷いは盲目の証であった。
とどのつまり、ぼくの目は十年前から霞んだままだと師は言いたいのだ。六道ムイと果たせぬ約束を交わしたあのときから、なにも進歩がないと。
ありとあらゆるものを愛し、同時にありとあらゆるものを憎んでいたムイ。ぼくに忘れられた信仰と、魂の在処を教えてくれたムイ。若くして心臓を患い、血でシーツを汚しながら死んでいったムイ。彼女の笑顔を、言葉を、そして彼女と交わしたあの約束を、ぼくはときおり思い出す。彼女の死から十年が経ったいまでも。
やがて師は庭の隅に植わっているカシワの木の前で立ち止まった。
「今年も芽吹きの季節が来た」
師は瑞々しい緑色を湛える葉にそっと触れた。その足元には、枯れ果てた古い葉が散らばっている。
「この枯れ葉はいったい」
「カシワの葉は枯れても枝についたまま冬を越し、新芽が吹くと同時に地へ落ちるのだ」
それから師は来た道を御堂へと戻ってゆく。いっぽう、ひとり残されたぼくはカシワの木を見上げながら、師がこの木を案内した理由を考える。師はさきほど言っていた。ぼくはまだ朝の霞のなかにいると。朝の次には昼と夕べと宵が待ち、道のりは果てしない。その長く険しい道を、冬を越すカシワの葉のように忍耐強く進めということだろうか。それとも、ほかに深い意味があるとでもいうのか。
ぼくには、わからない。師はいつも肝心なことを話してくれない。
疑似映像が終了し、まぶたを開いたぼくは、椅子の背に深くもたれて溜め息をついた。考えがまとまらないせいだろうか。頭が少し重い。
『カンバセーション終了です。お疲れさまでした』
補助コンピューターからのメッセージが視界の中央に表示される。
今世紀に入り、神は死んだ。哲学的な隠喩でもなんでもなく、本当に神は死んだのだ。あるいは宗教が消えたと言い換えてもいい。規模の大小によらず、いまやあらゆる宗教は存在意義を失った。補助コンピューターの有する二つの機能、知の恒常性プログラムとインナー・カンバセーションによって。
かつて、宗教をひたすらなる依存感情と定義した学者がいたという。そこで言われている宗教、つまり前時代的な宗教をぼくは知らないが、この依存感情とはおそらく二つの対象に向けられたものなのではないかと思う。
一つ目は神に対する依存。経典には、ああすれば救われる、あるいはこうしては報いを受けるといった神の教えがつらつらと書かれていて、人はその教えに従うことで自らの行為の正当性を実感する。行為の正当性の実感。自らが正しい行いをしているという確かな感覚。それは人に最上の安堵を与えてくれるだろう。
二つ目は他者に対する依存。自分と同じ神を信じ、自分と一つの価値観を共有している人間の存在もまた、安堵を生む。
そして安堵は人の心に平静をもたらす。大切なのは心が平穏無事であることであり、宗教はそれを獲得するためのツールに過ぎない。
だから人が前時代的な宗教ではなく、心の平穏を確実に約束してくれる補助コンピューターを選んだのも、当然といえば当然だった。
では、現代の人間はひたすらなる依存感情を完全に捨て切れたのか。答えはノーだ。機械の力を用いて心の平穏を獲得してもなお、人は依存する対象を求めた。平穏の根拠の一端を他者に委ねることで、人はその平穏に客観性を持たせようと考えた。もっとシンプルな言い方をすれば、人は依存せずにはいられない生き物であったのだ。
そしてその願いを可能にしたのがインナー・カンバセーション―補助コンピューターが作り出す疑似人格との対話だった。自分の補助コンピューター内で生み出された、自分と異なる判断基準を持つ疑似人格。それは最も身近な他者であるとともに、知の恒常性プログラムの化身でもある。疑似人格はプログラムとリンクして人の心を巧みに操り、常に人より上位に立つ。人は自分よりも高位の存在である疑似人格をほとんど無条件に受け入れる。それこそ、前時代の神に対してしたように。
五十億人の頭のなかに、五十億とおりの神と五十億とおりの信仰が存在する。これが現代における宗教の形式であり、この形式の成立に伴って、信仰という語は公の場で口にすることがはばかられるような、きわめてプライベートな意味を持つ語となった。
ぼくがついさっきまで話をしていた僧侶、空もまた、補助コンピューターが作り出した疑似人格である。しかしほかの人々の頭のなかにいるであろう神様と違って、空は求道者であった。信仰の対象者ではなく実践者であった。なぜ補助コンピューターがあのような人格を生み出したのか、その理由はわからない。自分でも気づかぬ潜在的な欲求が反映された結果か、あるいはその逆か。とかくこの頭のなかにはきれいに髪を剃った寡黙な僧侶が住み着いており、ぼくは彼のことを師と仰いで問答を繰り返している。おかしな話だ。
『次回のカンバセーションの日時を指定してください』
眼前にメッセージウィンドウとカレンダーが表示され、ぼくは仕事のスケジュールを確認したうえで、再来週の金曜日、午後十時を選択する。
『次回のカンバセーション予定日を確認しました』
ウィンドウが消えたあと、ぼくは補助コンピューターのアーカイブにアクセスし、伽藍会脳機械学研究所に関するファイルを開く。昼にリツが送ってくれたものだ。
伽藍会脳機械学研究所。四年前に閉鎖されたそこは、会長兼所長であった天部シキ博士のために用意されたような施設だった。広大な土地、最新鋭の設備、従順で有能な研究員。すべてが博士のために存在し、機能していた。脳機械学に明るくないぼくには、博士がそこでいったいどのような研究を行っていたのかわからない。しかしながら、四ペビバイト相当のサーバー群を保有しているというのだから、高度かつ複雑な情報処理を要する研究であったことは疑うべくもないだろう。
四ペビバイト相当のサーバー。喉から手が出るほど欲しい代物だ。民間調査会社がわれ先に飛びつくのもわかる。しかしそのサーバー群を手に入れるため差し向けられた八人の調査員たちは、誰ひとりとして戻ってきていないのだ。民間とはいえ彼らも調査員だ。世界じゅうの紛争地帯を渡り歩いてきたに違いない。それに行方不明者のなかには、かつて戦場で行動をともにし、ぼくの命を助けてくれた者もいた。ちょっとやそっとのことでやられる者ではなかった。
そんな彼らが、帰還しないという。いったいあの施設の地下になにがあるというのか。彼らはなにを見て、なにを知ったというのか。ぼくは考えを巡らせるが、わかるはずもない。
答えは春の朝にたちこめる霞の向こうにあるのだ。それを知りたければ、霞の向こうへ進むしかない。
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