悠一

 「今日は早く帰らないといけないから。ごめん。」

 「なんで?」

 「……妹が、待ってるから。」

 妹。口にする前に、一瞬だけ唇が躊躇った。明日美がかわいくないわけじゃない。俺を育ててくれた義理の両親に感謝がないわけもない。普段はなんの引っ掛かりもなく、明日美と咲子さんと暮らしているのに、こういうときだけ、俺の中の違和感が顔を出すから、嫌になってしまう。

 「……妹。……いいね、先生の家族は幸せそうで。」

 バイト先の塾の裏手、人通りのない細い路地。制服姿の東さんは、ローファーの足もとに視線を落とした。彼女は俺がバイトをしている塾に通っている高校一年生だ。

 俺は基本的には個別で高校生の勉強を見ているのだけれど、東さんは俺の担当の生徒ではない。時々駆り出される、自習室に控えて生徒の質問に答える、という、俺が一番嫌いな業務があるのだけれど、それではじめ顔を合わせた。

 彼女は行儀悪く足を組んで、テキストに落書きなんかをしているタイプの生徒なのだけれど、成績はずば抜けてよかった。

 自習室入り、同僚と交代して教師用のデスクに座った俺を、東さんはしばらく黙って見ていた。そのときは特に会話をすることもなかったのだけれど、彼女は俺の仕事終わりをこの路地裏で待っていた。俺も、待たれているような気がして、急いで仕事を切り上げたような気もする。それからも、彼女はしばしばこの路地で俺を待っていて、いくらか立ち話をして、途中まで一緒に帰る。

 「……そんなことも、ないよ。」

 彼女にも、親がいない。別に、自己紹介をし合ったわけではないけれど、お互いなんとなく分かった。あまり考えたくはないことだけれど、俺も東さんも、孤児独特の匂いをさせているのかもしれなかった。彼女以外の孤児に会ったことはないから、確かめようもないことだけれど。

 「……あるよ。待ってるから、早く帰るんでしょ? 幸せじゃん。」

 「そう単純でもないと思うけど。」

 「なんで? すごく単純な話だと思うけど?」

 「……そうかな。」

 そうだよ、と、強く念を押すことを、東さんはしなかった。なぜか、不安そうな目で俺を見上げただけで。

 そんな顔しないで、と、言葉にするのは白々しい気がして、黙って彼女の肩を軽く叩いた。明日美と同い年だし、同病者憐れむような仲だし、全然そんな関係ではないのだけれど、彼女とこうやって一緒に帰っているところが目撃されたら、アルバイトはクビになるのだろうな、と、ぼんやり思った。

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