第16話

 桶たっぷりに入った水の中に、太陽が白い光を灯している。山が近いためか、風が涼しくて気持ちがいい。木々の風鳴りに耳を傾け辺りを見回すと、整然と並んだ白と黒の墓石がたっぷりと太陽の光を吸い込んで、鈍く優しい輝きを放っている。

 私達は白い墓石の前に立ち、両手を合わせた。

 墓石に水をかける。硬く熱いその表面をすべる水が太陽の光を反射して、煌く。

 つん、と線香の香りが辺りを包んだ。


 ――歩道橋での事件から三年が過ぎた。


 突き飛ばされた私はすぐに救急車で運ばれ、治療を受けた。

 お腹の子を傷つけてはいけない。ただそれだけが頭に浮かんだ。お腹をかばって落ちた私は頭を強く打って、気を失ってしまった。

 そして気が付けば私は病室のベッドの上だった。私のすぐ傍で手を握る佳代と、その隣には弟くんにご両親、そしてお父さんがいた。

 その場に母さんはいなかった。それだけで、私には何が起こったのかがわかった。わかってしまう自分がなんだか情けなくて、悲しかった。


 ――幸、すまないことをした。


 お父さんが言った。

 私は首を横に振って、それ以上聞くことを拒んだ。聞かなくてもわかった。だからこそ聞きたくなかった。


 ――私を突き飛ばしたのは、私の母さん。


 いつか許してくれると思っていた。いつかは祝福してくれるだろうと思っていた。

 だけど、母さんが私達を許すことは無かった。結婚式にも、あの人の葬式にも出ず、子供が出来たことを知れば、子供を堕ろせとまで言った。

 母さんは私をずっと束縛し続けてきた。私は子供の頃、ずっと母さんの敷いたレールの上以外を歩くことを禁じられていた。母さんが子供の頃、そうしてきたように私も母さんの期待に答えなくてはならなかった。それが私の生き方なのだと思っていた。

 そして、私はあの人に出会った。出会って数年は良い友人として、大学に入ってからは恋人として過ごした。

 物静かで、心配性で、優しいあの人がそばにいるだけで私は幸せだった。絶対に離れたくない人だった。この人と一緒にいられれば、私は本当の私でいられるのだと思った。母さんの敷いたレールをあの人はひょいと飛び降りて、私に手を差し伸べてくれたのだ。


 ずっとそばにいたかった。


 だけど、私はあの人が死んだ日、何も出来なかった。血にまみれたあの人のそばに膝をついて、ただ泣くことしか出来なかった。

 私はあの人に何もしてあげられなかった。別れの言葉をかけることも、何も出来ず、ただ泣くだけで。私の人生はあそこで死んでしまったのだ。あの人いない未来なんていらないとさえ思った。

 だから子供が出来たとわかったとき、私の心に一筋の光が差し込んだ。あの人の子供。あの人が私に最後に残してくれたもの。

 私はその光にすがりつくように起き上がった。差し伸べられた手をまた握って歩き始めた。

 たくさんの人に支えられている。その時、ようやく気付いた。ずっと心配してくれていた佳代。一緒に暮らそうといってくれた弟くん。温かく迎えてくれたお義父さん、お義母さん。

 そんな人たちの支えがあって、私はまっすぐ歩けるんだ。

 歩道橋での事故の時、私は絶対にこの子を失いたくないと思った。お腹を抱え、体中を打ち付けて、自分がどんなに傷ついてもいいから、この子だけは守りたいと思った。

 あの人が死んだあの日に何も出来なかった自分。もう二度とそんな思いはしたくなかった。

 体中が痛み、朦朧とする意識の中、目の前には馬鹿みたいに広い青空があった。太陽と雲と青空と、駆け下りてくる佳代の姿が視界の端に映って、私はあの人も、最後にこんな空を見たのかな、と思った。


 なぜか、本当になぜかはわからないけど、私はあの時、確かにあの人がそばにいるのを感じた。馬鹿みたいに広い空にあの人の笑顔を感じた。ただ、がんばれ、と言ってくれたような気がした。

 ずっとそばにいてくれたのかもしれない。あの人は心配性だから、落ち込んでる私を見てはらはらしていたのかもしれない。そしてずっとがんばれと励ましてくれていたのかもしれない。

 閉じた目を開けると、水はすでに乾き、墓石は鈍く優しい光を反射していた。

 私はもう一度、空を仰いだ。


 ――――そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私はもう歩いていけるから。


 遠い遠い空の向こう、そう言って私は小さな手を握りしめ、微笑みかけた。


「それじゃ、帰ろうか」


 これからは一人じゃない。ずっと一緒に歩いていこう。

 高い空と大きな雲と、優しい風に包まれて、これから続く長い道をずっと一緒に。

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そばにいさせて 佐渡 寛臣 @wanco168

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