第15話
突然の出来事だった。歩道橋を降り始めた幸を誰かがいきなり突き飛ばされた。
急な衝撃に幸が階段を踏み外す。バランスが崩れて、体がぐらりと揺れる。咄嗟に、幸は右足を前に出して、体制を立て直そうとするが、右足はただ力なく、がくりと折れた。
右足には未だ黒い痣が残っていた。
階段下には誰もいない。今、幸の体を受けとめられる人間はいないのだ。考えなんてふっとんで、気付けば幸に手を伸ばしていた。
だんだんと遠ざかっていく幸を掴もうと伸ばした手の先には、幸の左手がいやにはっきりと映っていた。赤黒く変色した左手に白く浮かんだ指輪が、太陽の光を反射していた。
伸ばした手は無情にも幸の手をすり抜け、ただ冷たい感触を残して、離れていった。
頭が真っ白になった。気がつくと、階段の真ん中で眼下に横たわる幸を見下ろしていた。
冷たい感触をその手に握りこんで、落ちるように階段を下り、幸の前に跪いた。
――こんなものを見るためにここに留まったんじゃない。
幸の額に、鮮やかな色の血がべったりとついていた。両手を地面について幸の顔を覗き込む。苦悶の表情を浮かべ、幸はわずかに膨らみ始めたお腹を押さえていた。
幸の頭を覆うように、地面に手をついた。血の気のひいた幸の顔が視界を埋める。
ただ、生まれてくる子供を見たかっただけなんだ。ただそれだけを見るためにここに留まったんだ。
ここに残っていてはいけないことはわかっていたのに。これ以上ここにいても幸を傷つけるだけだとわかっていたのに。
初めから、だったのかもしれない。初めから間違っていたのかもしれない。幸と佳代と三人で歩いた川沿いの道で感じた孤独感。あの時すでに、ここにいてはいけないということがわかっていたんじゃないか。
幸の強く握り締められた左手が、だんだんと緩み始めていた。
うっすらと、幸が瞼を上げた。薄茶色の瞳は涙で潤み、まっすぐとこちらを見つめる。幸と視線が重なる。
体がだんだんと熱くなっていく。胸の底から込み上げてくる感情が、喉を通して瞼を熱くする。
もうどうすることも出来なかった。どうすることも出来ないことが辛かった。
――もう一緒にいられなくていい。これから先、永遠に一人きりだって構わない。それがどんなに苦しくても構わないから、もうこれ以上の苦しみを幸に与えないでくれ。
もう幸は十分苦しんだじゃないか。もう十分悲しんだじゃないか。だからもう幸せになったっていいだろ。
涙が幸の頬に落ちた。
死んでから、初めての涙だった。思いのこもった涙が幸の頬を通り抜ける。手と足の先から、だんだんと力が抜けてくる。
うっすら開かれた瞼の間から薄茶色の瞳がこちらを見つめていた。涙で幸の顔が滲んで見えた。
そのぼんやり滲んだ視界の中で、幸がゆっくりと左手を伸ばす。白い肌の左手がそっと頬をかすめて背中に廻るのを感じた。
「……
長いトンネルの向こうから響いてくるような幸の声が頭に響いた。それが俺の最後に聞いた幸の声だった。
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