第14話

 街路樹の枝の隙間から太陽の光りが漏れる。歩く度に煌めくその光に目を細め、日陰に沿ってゆっくりと歩く。少し先に緑の歩道橋が見える。

 背の高いビルが、空を四角く囲み、照りつける太陽が、ビルの窓に反射する。車道には多くの車が行き交い、絶え間なく騒音を周囲へと散らす。


「――――で、今は福井くんの家にお世話になってるんだ」


 そんな中でも佳代の声は綺麗に私の耳に届く。


「うん。一昨日からね。お腹の子のことを話したら、「妊婦の一人暮らしは危ないから、こっちに来ないか」って・・・・・・」


 わずかに膨らみ始めたお腹にそっと手をやる。自然に口元が綻ぶのが自分でもわかる。


「初めはね、大丈夫だからって断ってたんだけど、弟くんの熱意に負けてね」

「熱意?」


 佳代が首を傾げる。私は拳を握り、口を尖らせ、


「幸さんが兄貴の嫁なら、俺の姉さんなんだろ? だったら、俺、力になりたいんだ。俺達、もう家族なんだから――って」


 弟くんの声真似をして答えると、佳代がぷっと吹き出す。


「アツイ男だねぇ、弟くん! いい子じゃないか」


 口の端をニッと上げて、佳代が笑う。私もそれにつられるように、微笑みを浮かべた。

 佳代は私の知っている友人の中で一番、夏の似合う子だと思う。

 風に揺れる黒髪は幼い頃から羨ましかった。いつも力強く私の手を引いてくれた。まっすぐな目をいつもこちらに向けてくれた。夏の爽やかな風を私はいつも彼女に感じていた。

 今も佳代は私をまっすぐ見てくれる。

 あの人が亡くなった交差点に、花を添えた帰りだった。

 日曜日の午後、駅から少し離れた場所に大型書店がある。そのすぐ近くの交差点で事故は起こった。私はずっとその場所に近づけないでいた。


 その瞬間を思い出してしまうのが怖かった。

 目の前で跳ね飛ばされたあの人。信号を無視して突進してきた乗用車はそのまま走り去り、残された私は何も出来ずに立ち尽くしていた。

 わけもわからず道路の真ん中で横たわるあの人に近づいた時には、もう彼は息をしていなかった。その瞬間を思い出してしまうのが怖かった。道路の真ん中で横たわる彼を。何も出来なかった自分を。

 あの場所に別れを告げたかった。忘れるためではなく、乗り越えるために。そして引きずってしまわないように。

 道路の向こう側に駅が見える。私達は歩道橋の階段を上り始める。ここの信号は引っかかると待ち時間が長いのだ。


「最近はね、体の調子もだんだん戻ってきて、食欲だってすごいんだよ」


 私は軽いガッツポーズをとって見せる。


「ほんと、この間会った日からそんなに経ってないのに、変わったよね。頬の血色だっていいし、ちゃんと肌色してるよ」


 前は相当ひどかったらしい。ほとんど鏡なんて見ない生活をしていたせいか、自分がどんな顔色だったのか覚えていない。

 佳代が目を細めて、軽く息を吐く。


「良かったよ。幸が元気になってさ」


 くしゃりと、佳代が私の頭を撫でた。

 私は心に残っている不安を佳代に隠して、笑顔を見せた。

 もう佳代の笑顔を曇らせたくなかった。

 ほんの少しの不安なぐらいで佳代に甘えちゃいけない。私ががんばって佳代を安心させるくらいにならくちゃ駄目なんだ。

 平手打ちをした手の平の痛みがじんと甦る。

 手の平を握り締め、そっとお腹に手をやる。


 ――大丈夫。何も気にすることなんてない。


 ようやくささやかな幸せに向かって歩き始めたんだ。もう悲しいことなんて起きないよね?

 あの人を想い、心に問う。


 ――だが、あの日以来、未だ母さんは私の前に現れていない。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 幸が笑顔を見せる。それだけで硬い音を立てていた鼓動が柔らかな音に変わる。

 歩道橋の上にはまばらに人が歩き、幸のゆっくりとした歩調に合わせて階段を上がる。橋の下には多くの車が行き交う。

 幸が笑う。ほんの少し日に焼けた腕はやはりまだ細い。

 ほんの数週間で、まるで憑き物が落ちたように、幸はみるみる元気を取り戻していった。

 子供を身篭っていることがわかったとき、幸の周りを覆っていた悲しみや苦しみが、すべて未来に向ける力へと変わった。

 自然と口元が笑みを作る。付きまとっていた不安も一緒に落ちたのだろう。小さな溜息がほっとこぼれる。

 幸の髪を佳代がくしゃりと撫でる。幸は別段嫌がりもせずにまた笑みを佳代に向けた。

 歩道橋の階段を上がりきり、正面のビルの窓から反射する光が視界を一瞬遮る。

 無言のまま、歩道橋の上を二人で歩く。

 歩道橋には私達二人だけだった。歩道橋の下を走る車の喧騒を聞きながら、佳代は物思いにふけっているようだった。視線の先は幸を飛び越えて、こちらを見ているような、そんな気がした。

 不意に視線を感じた。階段の下を見るとを一人、女が上がってきていた。この真夏に合わない、長袖の上着を着込んでいる。

 すれ違い、二人が階段を降り始める。幸は何か考え事をしているようで、お腹に手を当て、黙り込んでいた。

 長袖の女が振り返り、二人へ近づく。二人に向かって叫ぶ。何か嫌な予感がした。

 不意に佳代が、立ち止まって振り返った。

 女は、もうすぐ傍にまで迫っていた。

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