第12話

 正午のいちばん日差しの強い時間帯だった。

 公園で遊ぶ少年達が水鉄砲を片手に走り回っている。飛び散る水しぶきと、木々の葉の緑が、太陽の光を反射させ、夏の公園を輝かせていた。

 公園のベンチに幸が一人で座っている。傍に立つ木が、幸とベンチを守るようにその枝を広げ、影を作っている。

 買い物袋を隣に座らせ、幸は一息ついて、額の汗を拭う。ハンカチを持つ左手はやはり黒い痣をつけている。深く黒い、影のような痣。よく見ると、手で掴んだような痕にも見える。

 同じような痕が足にもあった。この間、触れてしまった右足だ。足首辺りに痣が見える。

 このままではいけないと思っていた。このまま幸のそばにいても、幸を傷つけてしまうだけだ。早く幸のそばから離れなければならない。あの痣がどう幸に悪影響を与えるかわからない。

 今が、「離れなければならない時」なのだろう。この痣はそのきっかけなのだ。

 そう思い至って、もう一週間以上が経過していた。

 幸が目を瞑って空を仰ぐ。公園を通り抜ける風が、幸の髪を撫でる。

 少年が一人、空になった水鉄砲を片手に駆け寄ってくる。傍に設置された水道で水を汲みにきたのだろう。

 他の少年がそれを見計らって、水を汲みにきた少年を狙い撃った。

 尻をびしょぬれにされた少年は怒って、汲み終えたばかりの水鉄砲で、反撃する。


 ――そんな光景を幸は軽く微笑んで眺めていた。


 少年を目で追いながら、日陰の涼しい風を浴び、この小さな公園のそんな風景を眺めていた。

 大きく一息吐いて幸は立ち上がると、目の前で細い流水を流しっぱなしにしている水道をしめてから公園を後にした。

 少し距離を置いて、幸の後に続くように公園を出た。少年達は飽きることなく、水鉄砲を振り回していた。

 道路の左端を壁に沿って歩く。重たそうな買い物袋を右手に持ち、幸は真上から降り注ぐ太陽の日に耐えながら、帰り道をやや急ぎ足で歩いていた。時折り通り過ぎる車を見送っては、運転手を羨ましそうに見て、溜息一つこぼして、わずかにある影を踏みながら壁際を歩く。

 幸の背中をじっと見つめながら歩く。小さな背中だが、背すじはぴんと伸び、顔はまっすぐ前を見ている。

 汗を拭う幸を見て、幸に合わせていた歩みを少し遅らせる。

 最近になって、幸がほんの少し笑顔を見せるようになった。棚の中でずっと伏せてあった写真に毎日話し掛けるようになった。毎日の出来事を報告してくれているのだろうか。その表情はとても明るい。

 なにがあったのかはわからない。幸の中で確実に何かが変わっていた。

 先を歩く幸の背中が、だんだんと離れていく。

 幸はもう前を向き始めている。過去を見て、悲しみに暮れていた日々から抜け出そうとしている。

 もうここにいる理由なんてなくなっていた。いや、初めからそんな理由なんてなかったんだ。幸が悲しむ姿を見て、それに縋るように甘えて、自分勝手な理由をつけて幸のそばにいようとしていた。


 ――もう、終わりにしなくてはならない。


 瞳を閉じて、歩みを止めた。

 もう幸は一人で歩き始めている。新しい光を見つけて歩き始めているんだ。そんな幸にしがみついていてはいけない。


 ――もうお別れだ。


 もう一度、幸の背中を見送る。吹き抜ける柔らかい風が幸の髪を軽く撫でた。

 最後までお別れの言葉が届かないのは寂しいけど、仕方ないよな。

 遠くなっていく幸の背中を見つめ、最後の言葉を口にした。


 ――さよなら、幸。


 そういい残して、振り返ろうとした時だった。

 前を歩く幸が、突然立ち止まってこちらに振り返った。

 視線がぶつかりあって、身動き一つ取れなくなっていた。それほど幸の目はまっすぐとこちらを捉えていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 少年が走っていく。私はその先にいる人物を見つめていた。ゆっくりと近づいてくる人物は、もう一度、私の名を呼んだ。


「――幸」


 正面まで来て、足を止める。長い黒髪が風になびく。ゆっくりとした動作で、脇を通る少年を見送り、また私に視線を合わした。

 母さんだった。顔に笑みを張り付かせたまま、口を開く。


「久しぶりね」


 頬に手を当てて、軽く首を傾げる。私はごくりと唾を飲み込み、相手の目を見る。


「家に行っても出てこないし、電話にも出ない・・・・・・。あれは居留守だったのかしらね?」

「――何をしにきたの」


 喉の奥で詰まる声を何とか絞りだす。


「母親が娘に会うことに、理由なんているのかしら」


 喉が渇いてくる。心臓が萎縮して、私から言葉を奪っていく。


「いろいろ話したいこともあるでしょうし、私も聞きたいことがあるわ」


 目を見つめる。逸らしてはいけない。確かな直感が私にはした。


「迎えに来たのよ。もうあなたがここにいる理由なんてないんでしょう?」


 私は一歩、後ろに下がった。母さんの声は威圧感に満ち、私を萎縮させる。


「・・・・・・どうして?」


 自分の声じゃない気がするほど、か細い、弱者の声が自分の耳に届いた。


「あの男もいなくなって、あなたがもうここに留まる理由なんてないでしょう? もう結婚遊びなんてやめて、家に帰ってらっしゃい」

「――いや」


 目をつぶって、私は声を絞り出した。

 ゆっくりと目を開くと、母さんは変わらぬ表情で、溜息混じりに言う。


「来なさい」


 私は歯を強く食いしばってから、相手を睨みつけた。虚勢だったが、それでも今の私を奮い立たすにはそうするしかなかった。


「絶対にいや! 私、母さんとは行けない!」


 母さんは深く目を閉じ、溜息を大きく漏らして、首を横に振った。


「いつの間にこんなに物分りが悪くなったのかしら。まったく、佳代ちゃんみたいな育ちの悪い娘と付き合ってるから聞かん坊になっちゃったのかしら」


 こちらを見て、続ける。


「幸は、家に帰るの。いやとか、行かないとか、そんな言葉を聞きにきたんじゃないの。わかる?」


 そう言って母さんは私の手を掴んだ。ぐいぐいと力強く引っ張るその手を振りほどこうと、私は叫んだ。


「絶対にいや!」


 子供のように喚く私に、母さんは苛立った様子で、腕を掴む力を強める。


「幸! いいかげんに――」

「私、妊娠してるの」


 私は手を振りほどいて、眉間にしわを寄せて怒る母さんを睨んだ。


「あの人の子供よ。私のお腹にあの人の子供がいるの」

「――幸?」


 母さんはじっとこちらを見つめたまま固まっていた。


「な、なにを・・・・・・」


 震える声で母さんが呟く。ゆっくりと私の肩を掴む。


「なにを馬鹿なことを言っているの・・・・・・自分がなにを言っているかわかってるの?」

「母さんこそ私の言ってることがわかってる?」


 一瞬、母さんが目線をそらした。何か呟いたのだが聞き取れなかったが、母さんはすぐさま視線を戻して私に言った。


「――幸、堕ろしなさい」


 鋭い目つきで私を睨んでいた。私は母さんの言葉の意味を上手く掴めずにいた。

 肩を掴む力が一層強まった。ぎりぎりと、爪が食い込む。大きく見開いた瞳の中に私の姿が見えた。


「あんな男の子供を産んではいけないわ! そんな馬鹿なことは言って私を困らせないで!」


 喉もとに熱い血が流れた気がした。


「幸を置いてさっさと逝ってしまうようなやつの子供なんて堕ろしてしまいなさい! あなたにふさわしい夫なんて私がすぐに見つけてあげるから」


 歯を噛み締める音が、顎の骨を通じて耳に届く。頭が浮き上がるような感覚の後、私は自分の手を止めることが出来なかった。

 蝉の騒がしい鳴き声の中、母さんの頬を叩く平手打ちの音が響いた。

 じんじんと、痛む手の平を握り締め、私は荒い息を吐きながら、母さんを睨みつけていた。

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