第10話
白の時計がかちかちと時を刻んでいた。あの頃と同じ夏が今も過ぎようとしている。
いや、同じ夏が過ぎることなんてないんだ。もうあの人は私のそばにいない。
目を瞑るといつも心に平原が広がる。あの人が話してくれた平原が。レールなんてない、道なんてない平原で、私は一人立ち尽しているのだろうか。
あの頃の私に戻っているんだ。そう思った。
レールに乗らず、何もない平原で、でもあの頃見えてた光なんてなくて、私はただ呆然と立っているのだ。
歩くことが出来なくなった。全てが恐くなってしまった。
歩き出すと、あの人が消えてしまいそうだった。微かに触れ合う指ですら消えてしまいそうだった。
――どうしたらいいの?
もう一度、心に聞いた。
行き止まりに見えた壁を壊して、私の手を引いてくれたあなた。ずっと私は待っていたのだ。敷かれたレールをひょいと乗り越えて、私の手を引いてくれるあなたを。
私は今も待ちつづけている。あの人がまた私の手を引いてくれるのを。
目元を擦って、天井を見上げた。蛍光灯の白い光りが眩しく私を照らしていた。
――もう一度、もう一度だけ、手を引いて。私に一歩を踏み出す勇気をください。
私は右手をお腹のほうにやった。温かい体温に心臓の音が聞こえる気がした。
その鼓動を感じながら大きく深呼吸をした時だった。
「――っ痛!」
突然左手に痛みが走った。ペンチで手の甲を捻られるような痛みに私は一瞬飛び上がって、自分の手を見つめた。
◆ ◆ ◆ ◆
眉を寄せて、幸は自分の左手をじっと見つめている。黒く変色した手の甲を擦りながら、首をかしげている。
――信じられない出来事だった。
佳代との食事から帰ってきた幸は着替えもせずに部屋で考え事をしているようだった。何を考えていたかは定かではないが、しばらく寝転がっていた幸は、腰を上げると、すぐ右隣に腰掛けて、頭を悩ませていた。
肩が触れ合うほどの距離だった。
思えば、この一ヶ月の間で、隣同士で座ること自体、初めてのことだった。
何故か、隣に座る幸の横顔が、ひどく懐かしく思えた。右隣で、眉を寄せて俯く姿は、今にも瞳から涙がこぼれ落ちそうに思えた。
だから、いつものように左手に触れただけだった。何の慰めにもならないのはわかっていたが、何もせずにはいられなかった。
その時だった。幸がびくりと手を引いたのは。
手を擦る姿から、幸の手に痛みがあったのはすぐにわかった。黒い痣が痛んだだけかもしれない。そう思おうとしたが、そうじゃないことはわかっていた。
――幸には、自分の左手の痣が、見えていないのだ。
なぜ、佳代は幸の左手を見て何も言わなかったのだろう。幸はどうして目に余るほどの変色が見られる左手を、何の処置もせず、隠すこともせずほったらかしにしていたのだろう。
答えはひとつだった。
二人には、あの痣が見えていなかったのだ。
痣が出来た原因はこちらにある。幸がどこかでぶつけたからではなく、こちらが幸に触れていたからだ。
触れている間、ずっと幸の温もりが伝わってきた。それが何の温もりなのかは考えたこともなかった。その温もりを感じている間は、何故か心が落ち着いていた。
そして今さっき、幸に触れた時、すぐには信じられなかった。
――黒く変色した幸の左手には、何の温もりも感じられなかったのだ。
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