第9話

 私はあの日、高校三年生の夏の終わりに家を飛び出した。母さんと進路の事で口論になり、佳代のことを悪く言われて、かっとなって家を出たのだ。

 佳代の所には行けなかった。佳代に頼ると、また佳代のことを母さんは酷く言う。そんなの私は聞きたくもなかった。

 私はとにかく遠くに行きたくて電車に飛び乗り、無我夢中で逃げていた。一人で歩く夜の街は心細く、怪しく光るネオンも、闇に沈む裏道も一人の私を怯えさせた。

 気がつくと私は知っている道に出ていた。いつも三人で歩いた川沿いの道。月が私を照らしていた。三人でいるときはあんなに綺麗に見えた月がなんだか恐ろしげで、私は早足で逃げるようにその場所を目指した。

 行きついた先はあの人の家だった。電柱の光の下に立って窓を見上げる。二階のあの人の部屋からは光が漏れ、私はそれを見つめながら、その場にしゃがみこんだ。

 こんなところにいても何にもならない。分かっていても私はすがるように窓の光を見つめるしかなかった。

 携帯電話も持たずに出た私には、もう偶然に頼るしかなかった。私は窓を見つめ、それが開かれる事を祈った。

 しかし、しばらくして窓の光は失われた。しんと夜に沈む街が私を押しつぶすようだった。静かな街を虫の声がりんりんと鳴っていた。

 希望も消え果てた。

 私は重い腰を上げられず、ただ俯いてその場にいた。

 すると、玄関の扉が開く音がした。顔を上げると、携帯電話を手に持ったあの人がきょとんとした目を私に向けていた。

 少し驚いた声で私の名を呼んだ。私は立ちあがって、小さく頷いた。


「佳代から電話があってさ。今から探しに行くところだったんだ」


 ほっと頬を緩ませてあの人は言った。


「――わ、私・・・・・・」


 上手く言葉を繋げられず、私は黙り込んでしまった。そんな私の肩に手をやって、大丈夫だから、と優しく彼は声をかけた。

 泣いてしまいそうだった。泣いて抱きついてしまいそうだった。私は涙をこらえて一つ頷くと、彼はにっこりと笑みを返し、それから私を家に招き入れた。

 玄関を通り廊下を抜け、途中の食卓では、彼の両親と弟が驚いた様子で私達に視線を向けていた。階段を上がり、彼は私を部屋に入れた。

 椅子を出されて、私は導かれるままに座り、飲み物を取りにいった彼を一人で待ちながら、ぐるりと部屋全体を見回す。読みかけの漫画本が部屋の隅に積まれていて、オーディオの前には開いたままのCDケースが無造作に置かれている。それでも綺麗に見えるのは、部屋全体が綺麗にまとめられているからなのだろうと感心する。

 私は視線を落とし、組んだ指を見つめた。胸の奥にしこりを感じる。母さんに対する苛立ちが、どこにもぶつけられずに胸に溜まっていた。


(――幸はどうしていつも私を困らせるの。ちゃんと言うとおりにしないと、困るのは幸なのよ?)


 奥歯を強く噛んで、耳に残るその声に耐えた。大きな溜息がこぼれた。同時に彼が麦茶を持って戻ってきた。彼は一つをテーブルに置いて、私の正面のベッドに腰掛けた。


「ご、ごめんね。こんな遅くに・・・・・・」


 壁に掛けられた時計は十一時を指していた。


「気にすんなって、大変だったんだろ? 詳しくは知んないけどさ」


 彼はそう言うと、ぐっとお茶を飲んだ。喉がごくごくと動く。

 私も一口お茶を飲む。からから乾いていた喉に冷たいお茶が流れる。また溜息が一つこぼれた。でもそれはさっきのものとは違って安堵を含んだものだった。


「――あのさ天野・・・・・・」


 私が落ちつくのを待って、あの人が言った。


「あんまり力になれないかも知れないけど、話して楽になれることだったらさ、話してみな」


 じっと私の目を見ていた。切れ長の、ほんの少し茶色がかった綺麗な目。見つめられて、私は堪らず目を逸らした。


「――聞いて・・・・・・くれる?」


 彼は頷いて応えた。何故か高鳴る心臓を抑えて、私はゆっくりと話し始めた。


「大学のことで母さんともめたの。私は佳代と同じ大学に行きたくて、そのことを話したら、母さん猛反対して・・・・・・」


 母さんの言葉が耳に甦る。苛立ちと悲しみが胸に広がる。

 今までもずっと我慢してきたのに。高校だって本当は佳代と同じ所に行きたかったのに。

 母さんの言いつけで、毎日塾に通って、習い事をして、友達と放課後遊ぶことなんてぜんぜんなくて、私の記憶に焼きついているのは、つまらなそうにそっぽを向く友達の背中。

 それでも変わらずにいてくれたのは佳代だけだった。

 誰にもかえられないのだ。いつも私を励ましてくれて、いつも私と笑ってくれる、泣いてくれる。


 ――唯一なのだ。私にとっては唯一の存在なんだ。


 高校を卒業すれば自由なのだと思っていた。思いこんできた。それを励みに三年間、耐えぬいたのだ。

 母さんが佳代のことを酷く言った。捲くし立てるように激しく、空き缶を蹴飛ばすように喧しく。

 耐えてきた私の中にあったたくさんの言葉が一気に溢れた。我慢という色のペンキを何度も重ね塗りしてきた私の心がぱりぱりと音を立てて剥がれていくのがわかった。

 あとは売り言葉に買い言葉だった。考えなんてなにもなかった。自分の口から出た言葉だとは信じられないような、そんな言葉が吐き出された。とにかく母さんのそばにいるのが私は堪らなく嫌だった。自分が自分で無くなっていっていたことに気付いたのが堪らなく嫌だった。


「なにをやるにも母さんが勝手に決めて、私の意見なんて何も聞いてくれなくて、私が前に歩くのも、どこを向くのも母さんが決めてる・・・・・・」


 私の足なのに、私の足じゃない。私の道なのに、私の道じゃない。

 一本のレールが引いてあるのだ。母さんが敷いたレールの上をただ流れて行くだけなのだ。その先を私は知らない。ただ暗くて恐いそのレールを流れていくことしか出来ないのだ。


「どうしたらいいのかわからないの。わからなくなるの」


 不安だった。先の見えないことが。ただ流れていくことが。

 それ以上話すことができなくなっていた。彼は私の言葉を頭で繰り返しているのかしばらく考え込んでいるようだった。


「天野がさ」


 ずっと黙って聞いていた彼が口を開いた。


「天野が悩んでいるのは、恐いからなんだよな」


 言葉を優しく紡いでゆっくりと話す。


「天野が言うレールからさ、天野は外れたいのに、その先もわからないから不安で」


 レールの脇も前も暗いから、どこへ行くのかもわからないことが不安で恐いんだ。


「――でもな、天野のまわりが真っ暗なんてことはないんだ」


 ――平原が広がっているんだ。道なんてない平原が。


 彼はそう言って、ゆっくりと目を瞑った。私も彼と同じように目を瞑ってみた。


「レールが引いてあって、そのまわりが真っ暗に見えるのは天野がレールの外を歩くことを知らないからだ」

「うん」


 ずっと佳代がレールの外を歩いている気がしていた。自由に、力強く、誰にも曲げられないほどに、しっかりと歩いているような気がしていた。

 佳代のようになりたいと思っていた。自分をしっかりと持っている佳代は私の憧れでもあった。


「レールなんてひょいと飛び越せばいい。天野にはそれを選ぶことだってできるんだ」


 ――まだ何にも決まってないんだから。彼の言葉が私の心を優しく撫でた。


「たった一歩踏み出すだけなんだ。どんなに遠い場所だって、たった一歩踏み出すだけで大きく変わっていくんだよ」


 広い平原が私の中で広がった気がした。私の望む未来が一筋の光となって差し込んだ。


「一人で踏み出すのが恐いなら手を引いてもらえばいい」


 まぶたを上げると彼の笑顔が目に入った。


「佳代だったら喜んで手を引いてくれるさ」


 いつも隣で励ましてくれた佳代。彼女の笑顔が頭に浮かんだ。

 そして彼は少し照れた様子で、


「――もちろん、俺もな」


 優しく笑ったんだ。

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