第8話

 扉を開けると、暗い廊下が静かに私を迎えた。玄関前の白い蛍光灯が、まっすぐ廊下に入り込み、私の影を長く伸ばした。

 扉が閉まり、暗闇の中、私は靴を脱ぎながら、壁のスイッチを押して、廊下に明かりを点す。とたんに暗闇はオレンジの光にかき消され、私は廊下に足を踏み出した。

 軽く壁に手を触れながら前へと進む。壁を擦る手に気持ちのいい刺激が通る。突き当たりの扉を開けると、外から入るわずかな光りが青白く部屋を照らしている。すぐに部屋の電気を点けて、私はいつもの場所に座り込んだ。


 ――着替えるの面倒だな・・・・・・。


 隣で静かにしている扇風機のスイッチをオンにする。扇風機の後頭部の出っ張りを引っ張って、首の動きを止める。

 ごろりと寝そべって、頭のほうにある壁を見つめる。

 少し上のほうにカレンダーが見える。両手を視線の先に出して、親指と人差し指を合わせて四角を作る。そのなかにカレンダーの絵を重ねてみる。

 スイカ割りをしている子どもの姿が見えた。楽しそうな笑顔をこぼす子どもの絵だった。

 大きな溜息が口からこぼれた。

 腕を上にしたまま、力を抜いてそのまま床に落とした。ばたりと床を叩く音と、振動が耳に入った。

 今度はぼんやりと天井を見上げた。真っ白な壁紙の上を蚊が一匹ゆらゆらと飛んでいるのが見えた。白い蛍光灯がじっとこちらを見つめていた。

 虫の声が外から響いていた。それでも頭の中はひどく静かで、耳から流れ込んでくる音は何の意味ももっていなかった。

 天井を見上げながら、左手の親指で、指輪を触った。つるつるとした冷たい感触が指に伝わってくる。

 今、自分に残された全てのものが、あの人との記憶に繋がっているような気がした。この場所も、この指輪も、私の記憶も、私の体も、すべて、あの人に繋がっているような気がしていた。

 それらすべてが、私の大切なものだった。それらすべてが、今の私自身だった。

 私は体をゆっくりと起こして、あの人がいつも座っていた場所の隣に腰を下ろした。正面にテーブルが見える。

 足を伸ばし、両手を膝の上に置いて、部屋全体を眺めてみる。

 目を瞑っていつもあの人が見ていた景色を想像してみる。目の前に私が寝転がっている。テーブルの向こう側には遊びにきた佳代がテレビを指差して何か言っている。

 両足をばたつかせて笑う私を笑ったよね。手を叩いて笑うのが癖だったよね。

 あの人が今ここにいるなら、いったいどんな気持ちだろう。どんな気持ちで、私を見ているだろう。心配してくれるだろうか、一緒に泣いてくれるだろうか。それとも昔と同じで、笑ってくれるだろうか。怒ってくれるだろうか。

 右手で頬を軽く叩いた。めっきり弱くなった涙腺が涙を流しそうになったからだ。

 両手を下ろして、私は俯いた。

 きっと、あの人もこんな私を見たくはないだろう。

 これから先、私が過去にしがみつくことをやめることは出来ないだろう。あの人を忘れることは出来ないだろう。

 あの頃のあの人を忘れることなんて出来ない。

 もう私の目の前は闇なのだ。後ろの光にしがみつく事しか出来ない。

 堪らなくなって目を閉じた。

 ふとあの日の記憶が頭をよぎった。心に広がる平原に、ほんの少し、ほんの少しだけあの人の指先を感じた。

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