第5話


 時計を見ると、もう五時をまわっていた。幸は相変わらず横になっている。テレビの電源を落とし、扇風機の風に当たりながら、ぐっすりと眠っている。こんな時間に寝るものだから、夜遅くに目が覚めて、一日のリズムが狂ってしまうのだ。

 だが、幸が眠るとほんの少しだけ安心する。

 起きている間の幸は、とにかく寝転がっているだけで何もしようとはしない。時々、食材を買いに行くくらいで、それ以外に外出することもなくなっていた。だから、一週間のうち、そのほとんどを家で寝転がって過ごす。テレビをつけても、ほとんど目に入っておらず、単なるBGMとしか捉えていないようだった。

 幸が起きている間は、ただ思考だけが巡っているのだろう。どんなに考えても、抜け出すことはなく、同じ所をぐるぐるとまわる。それがどんな悩みかはわからない。でも幸は今、答えを出せずにいるからこそ、こんな日々を続けているのだと思う。

 だけど眠っている間の幸は、少なくとも何も考えずにいられる。決してそれが解決に繋がるわけではないけど、それでもほんの少し幸せな夢でも見ているならそのほうがいい。

 開いた窓から流れてくる風が、背面の壁にかけられているカレンダーをなびかせた。

 静かに眠る幸を眺めていると、ふと、幸の左手に痣があるのが目に入った。どこかでぶつけてきたのだろうか、青黒い痣が手の甲に丸く浮かび上がっている。

 随分濃い痣だ。そうとう強くぶつけなければ、これほどの痣にはならない。昨夜、眠る前に見たときはこんな痣はついていなかった。

 なぜか痣のことがひどく気になった。

 眠っている幸は穏やかに寝息を立てている。

 ――気にすることはない。どこかでぶつけただけだ。

 そう言い聞かせて、胸にある不確かな不安を抑えようとするが、そう考えれば考えるほど痣のことで頭がいっぱいになっていった。

 考えとは裏腹に、自然と手が幸の左手に伸ばされた。触れて確かめたい衝動を抑えられなかった。

 幸の体がびくりと動いた。今まさに触れようとしていた手が、寸前で止まった。

 眠たそうに瞼をこすり、玄関のほうを振り返ると、寝ぼけた体で立ち上がって、よろよろと玄関に向かった。

 手を引き、幸が向かった先を見つめた。誰かが訊ねてきたのだろう。

 引っ込めた手を見つめる。幸の痣が今も頭に焼き付いている。どうしてこれほど気になるのかはわからない。なにかとても嫌な予感が頭を支配していた。不安な気持ちを切り替えようと、軽く頭を振る。

 壁に背を預け、視界の隅でからからと動きつづける扇風機と一緒に幸が戻ってくるのを待った。

 しばらくすると、廊下側の扉が開き、よく知る人物が顔を出した。佳代だ。

 呆れたような、驚いたような表情を浮かべ、彼女はテーブルの上に広がったごみの山を指差し、後から部屋に入った幸に、やれやれ、というジェスチャーをした。

 幸が頭の後ろをぽりぽりと掻いて、言い訳を並べたようだが、佳代は気にも留めず、台所からごみ袋を勝手に取ってきて、早速片付け始めた。

 目の前を佳代がどかどかと歩き回る。テーブルの上のパン袋や、コンビニ弁当の空容器、それらのごみを集めては手に持ったごみ袋に投げ入れていく。

 豪快にして乱暴な手つきでテーブルを片付ける佳代の影で、幸は小さなよだれのしみが残った枕をひっくり返して隅に置いた。その手にはやはり、黒い痣が目立って見えた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 佳代はほとんどごみで埋まっていたテーブルをものの数十秒で片付け、テーブルの上に置いてあるだけだった布巾を掴んで、さっと拭きあげると、額の汗を拭って、持っていた布巾を私に投げよこした。

「あ、ありがとう・・・・・・」

「どういたしまして。―――幸、テレビつけてもいい?」

 頷いて答えると、佳代はリモコンを使ってテレビのスイッチを入れた。肩に手を置いて、首をコキコキと鳴らす佳代がなんだか可笑しかった。私は台所に布巾を置きに行って、戻ってくると、もうすでにテレビの電源は落とされていた。

「あれ、消しちゃったんだ」

「うん。なんかくだらん」

 私はいつも寝転がっているところに座って、隣で律儀に動きつづける扇風機の頭を叩いて、首が回るように切り替えた。部屋の隅に置かれたごみ袋が風でかさかさと音を立てる。

 佳代が部屋中を見回す。掃除もずいぶんサボっていたから、これ以上何か言われるのは恥ずかしい。何か変なところがないか、私も部屋中を見回して一通りチェックする。

 佳代の視線が止まり、彼女は指差して言った。

「幸、一昨日から八月だよ」

 佳代の視線を追って後ろを見てみると、カレンダーが七月のままになっていた。あの人がいなくなってから、できるだけあの壁を見ないようにしていたため、気付かなかったのだ。

 私は立ち上がると、あの人がいつも座っていた場所に立って、カレンダーの端を掴んだ。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 何を言われたのだろうか、カレンダーを振り返り、見つめてみる。七月のカレンダーで、月の初めの方に汚い字で、会社の予定を少し書き込んである。これといって変わったところも見受けられない。

 どこか変なところでもあるのだろうかと、首をひねっていると、突然白い手がカレンダーの端を掴んだ。

 驚いて視線を幸たちに戻すと、視界がひらひらした布で埋まる。すぐにそれが幸のワンピースの裾だと気づく。見上げると幸がカレンダーをびりびりと剥がしている。

 左足に微かな温かみを感じた。見てみると、幸の右足が重なり合っている。

 ほんの一瞬の出来事なのだろうが、酷く長く感じられた。幸のワンピースの裾がひらひらと鼻先をかすめる。ぎゅっと目を閉じて、事が過ぎるのを待つ。

 この間まで、このくらいの接近なんてどうということなかったのに、これはどうにも恥ずかしい。相手に見えないというのがいけない。相手がこちらを認知している状態での接近とはわけが違う。ロッカーに隠れて着替えを覗いているような感じだ。どこか後ろめたさが頭によぎる。

 しばらくしてゆっくりと目を開くと、すでに幸はカレンダーを剥がし終えて、それをくるくると丸めて、壁に立てかけていた。

 ほっと胸を撫で下ろして、視線を戻すと、幸と佳代が話をしている。おそらく近況報告でもしているのだろう。佳代が大きく手振りして話をしている。こういう癖は昔と変わらない。幸は佳代の言葉に頷いたり、時折り、一言、二言答えたりしている。

 彼女達二人の付き合いはもう二十年近くになる。聞けば物心がつく前から一緒だったという。幼稚園から大学まで、一緒じゃなかったのは高校の三年間だけだった。

 その高校も幸は佳代と同じところに通うつもりだったらしい。だが、幸は私立の女子高に通うことになった。母親に進路を決められたのだ。

 厳しい親だった。門限にも厳しく、幸は放課後の二時間程度しか遊ぶ時間を持っていなかった。成績が少しでも落ちれば、その自由な時間を奪われたりもした。

 高校の最後の夏、幸は一度、家出をしたことがあった。母親に友人関係口出しされたのが原因だった。たった一晩の家出だったが、その小さな抵抗のおかげで、母親の束縛が緩まり、佳代と同じ大学に進むことができた。大学の四年間、幸への口出しはずいぶん減ったようだが、それでも幸の結婚には最後まで良い顔をしてくれなかった。

 テーブルを挟んで話をしていた二人が立ち上がった。佳代がバッグを肩にかけている。幸が佳代に一声掛けて、寝室へと消える。

 佳代は幸が出てくるのを待ちながら、壁にかけられた小さな鏡を覗き込んで、軽く髪をいじったりしている。

 しばらくして幸が着替えて寝室から戻ってきた。

 佳代が一声かけると、幸はこくりと頷いて、廊下へ続く扉を開いた。どうやら二人でどこかに出かけるらしい。そんな二人を見て思わず立ち上がった。

 扉が閉まってしまえば、外に出られなくなる。壁や扉にふれることが出来ても動かすことはできないのだ。

 もう二人は廊下のほうに出て、後ろ手に扉のノブを掴んでいる。

 急いで二人の後を追おうと駆け出す。目と鼻の先で、幸の手によって、扉がばたりと閉められた。

 すぐさまドアノブを掴むが、びくともしない。こうなってしまえば、もうどうすることも出来ない。

 大きな溜息がこぼれた。とぼとぼと、いつもの場所に戻り、腰を下ろした。

 外を見てみるともうすでに日は落ちてる。幸が帰ってくるのは何時ごろになるだろうか。時計を見つめると、静かに秒針が、ゆっくりと進んでいた。

 二人が出て行って、一人部屋に残り、ただじっと時計を見つめて幸が帰ってくるのを待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る