第4話
外を見上げると真っ青な天井に白い雲が張り付いている。雲はゆったりと流れる風に乗ってほんの少し形を変えながら向かいの建物の陰に隠れていく。ベランダの手すりには鳩が一匹、こちらに顔を向けている。
目の前で幸が眠っている。窓から差し込む陽光がわずかに彼女の頬をかすめていた。正面の壁にかけられた時計は長針と短針を真上に向けて重ね、正午を告げている。
幸が顔をしかめ、光から逃げるように体を丸めた。光の熱気から逃れた幸の顔を扇風機の弱風が優しく撫でる。その風に揺り起こされて、幸はようやくゆっくりと瞼をあげた。
幸が体を起こすと同時に鳩がベランダから飛び去った。
床にぺたりと座り込んでいる幸の周りには脱ぎ捨てられた衣服が散乱している。
幸が一度ぐるりと部屋を見回す。大きく溜息をついて、のろのろと立ち上がると、それらを拾い集めて、両手いっぱいに抱えて部屋を出て行った。
幸が一人で暮らすようになって数十日が経過していた。幸はその間、何もせずに過ごしてきた。料理も掃除も洗濯物もせず、体を横にして、ぼんやりとしている。ただ親戚や友人が家を訪ねてくるときだけはほんの少しだけ片付けをする。それ以外は本当に何もせずにただぼんやりとしているだけだった。
扇風機の風がコンビニの袋をかさかさと動かす。部屋はもうずいぶんと散らかっている。テーブルの上には食べさしの弁当。使用済みのコップもそのままにしてある。棚には少し埃が溜まり始めている。
そんなふうに部屋を眺めていると、手ぶらになった幸が部屋に戻ってきた。溜まりに溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んできたのだろう。
戻ってきた幸はまた扇風機の前に座り込むと、テーブル上のごみの中からリモコンを取りだし、スイッチを入れてから、ごろりと横になった。
昼間のワイドショーが画面に流れた。幸はぼんやりとそれを眺めながら、退屈そうに時間の流れに身を委ねていた。
きれい好きで、料理が得意だった。テーブルの上に食器をそのままにしているといつも「ゆっくりするのは片付けてから」と、片付けを命じられた。
――今はもう見る影もない。ただぼんやりと寝転がって、楽しそうに見ているわけでもなく、静かにテレビを眺めている。
もう何日外に出ていないのだろうか。狭い部屋の中で、寝て、起きて、食べて、寝る。起きていてもぼんやりとしているだけで、何を考えているのかも分からない。
ただ幸は夜になると、時折り思い出したように一人で泣いていた。その日はいつも触れられない手をつないで一緒に眠った。触れて悲しみを取り除いてやれるわけでもないが、何もせずにはいられなかった。
こうして壁にもたれて、幸を眺めて、時間が経つのをゆっくりと待つ。未来に何かがあるわけじゃない。むしろ、死んでしまった者にもう未来なんて無いのだろう。だから、幸の現在にしがみつくことしかできなかった。
幸を見ていると、いろいろなことを思い出す。幸と知り合った頃のこと、一緒に通った大学のこと、そして、結婚した日のこと。
知り合って、七年が経っていた。振り返れば、ほとんどの思い出の中に幸がいた。
七年のうち夫婦として過ごしたのはたったの二ヶ月だった。
日曜日の夕暮れ時だった。信号無視した乗用車が、視界を埋め、赤く染まる夕空に、朱色の雲がゆっくりと流れていくのを見上げていた。最後に聞いたのは、幸の悲鳴だった。
その瞬間まで、幸せを感じていた。二人で街を歩いて、家に帰ると幸が夕飯の仕度を始めて、その間に風呂を沸かして、テーブルを片付ける。テーブルを挟んで、テレビを見ながら食事をして。そんな当たり前の幸せを頭に浮かべていた。
今は幸がただ一人、テーブルの横に寝そべっている。
一緒に描くはずだった未来が消されてしまった。
幸の悲しみは確かに孤独を癒してくれた。消えていくだけの未来に、一つの光として、温もりとして彼女の悲しみを感じていた。
だけど、決して幸の未来まで消えてしまったわけではない。まだ幸の周りにはたくさんの未来があるはずだ。
今、幸はそれら全てを放棄して、悲しみに暮れている。二人で生きるはずだった未来の幻影だけを見つめ、他の未来から目を逸らして泣いている。
幸は諦めてしまっているのだろうか。もう他の幸せを探そうとは思わないのだろうか。
他人との交流を避け、一人で部屋に引きこもる姿は痛々しい。未来そのものに興味を無くしたように、時間をただ、食いつぶすだけの日々。
だが、どうすることもできない。幸の手を引いてやることも、触れて慰めることも何もできない。
たとえそれができたとしても、果たして幸の手を引くことを選べるだろうか。幸の手を引いて、新たな未来の選択をさせること。それは同時に、過去を捨てること、つまり忘れられることに繋がる。
――今はまだ怖い。孤独に耐えられる気がしない。幸の幸せを願わなければならないのに、そうできない弱い人間。
――まだ少し、もう少しだけ、そばにいたい。
そう思ってもいつか離れなければならない時が来る。その時が来るまでは・・・・・・。
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