第3話
そこにやってきたのは二ヶ月前のことだった。住宅地の真ん中を陣取ってそびえ立つそのマンションは白く、まだ真新しい。周りの団地の建物とは比べ物にならないほど清潔感に満ちている。
そのマンションの三階、一番東端の一室が、これからも幸と暮らしつづけるはずの部屋だった。
葬儀からの帰りだった。幸は鞄から部屋の鍵を取り出し、慣れた手つきで錠を開けると、倒れこむように部屋に入った。幸に続いて足を踏み入れると、自然に扉がゆっくりと閉まって、室内は闇に包まれた。突き当たりの部屋の窓から、外の光がわずかに入り、青白く廊下全体を微かに照らしている。
廊下の真ん中で、幸が地べたに座り込んでいる。よほど疲れているのだろう、体も心もこの数日の間にずいぶん疲労を重ねた。
しばらくぼんやりとしていた幸は、廊下の奥を見て、溜息一つ飲み込んで、よろよろと立ち上がった。視線を奥へと移すと、部屋の中で、ちかちかと赤い点滅が微かに見える。電話に留守録音が入っていることを示す合図だ。
幸は電話機を操作して、留守設定を解除すると、早速、メッセージを再生させた。電話機を覗き込んでみると、留守録音二件と表示されていた。
突然、部屋に明かりが灯った。何事かと振り返ると、いつの間にか電話機から離れていた幸が、壁際にある蛍光灯のスイッチの前に立っていた。
幸は足元のテーブルの上に鞄をトンと置くと、また電話機の前に立った。
幸の視線に合わせて電話機の液晶を見ると、丁度一件目の再生が終わり、二件目の再生が開始されたところだった。
再生が始まってすぐに、幸の表情が暗くなった。顔をしかめて、どこか苛立ったようすで、乱暴に受話器を取り上げ、再生を止めた。
幸はしばらく受話器を握りしめたまま、電話機を睨みつけていた。
誰からのメッセージだったのだろう。電話機の液晶はすでに光を失い、何処からのメッセージか確認することはできない。幸は電話機を睨みつけるのを止めて、大きく息を吐いてから、そっと受話器を元に戻した。
幸は振り返って髪を乱暴に掻き揚げると、早足で寝室に向かった。部屋着に着替えるためだろう。
静かな部屋に一人残され、仕方なく、電話機の向かい側の壁に背を預けて、腰を下ろした。
しばらくぼんやりと天井を眺めていると、喪服から部屋着に着替えた幸が、寝室から現れた。
目の前に座りこんで、幸は隣に並んで座る扇風機のスイッチを入れた。そして、ごろりとその場で寝転がり、こちらに視線を向けた。
◆ ◆ ◆ ◆
視線の先には、あの人がいつもテレビを見るときにもたれていた白い壁があった。いつもそこにもたれかかるものだから、白い壁は擦れて少し黒い汚れが残っている。
カチカチと時計の秒針の進む音だけが響いている。こちらに引っ越してくる時に佳代がくれた壁掛け時計。白を基調にしたシンプルなデザインは、私の好みに合致していた。
――カチカチカチ。
時間だけが規則正しく進んでいく。こんな時、いつも何をして過ごしていたんだろう。
目の前の白い壁に心の中で問い掛ける。答えが返ってくるわけもなく、ただその場所を見つめる。
あなたは今どこにいるんですか。私はこれからどうすればいいんですか。
何度も何度も問い掛けた。あの人に対するたくさんの問いが頭を巡った。その度にあの人はもういないのだと、言い聞かせている自分がいた。
こめかみにじんわりと痛みが走った。涙がこぼれそうになって、私は思わず寝返りを打った。あの人のいたあの白い壁を見るのが辛くなっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
――一瞬、目が合ったような気がした。
幸の酷く疲れた目が、わずかに焦点をずらして向けられる。彼女にこちらが見えるはずはないのだけど、どうしても、ほんの少し期待してしまう。彼女はただ虚空を見つめているだけなのに。
今、彼女の目に映っているのはただの白い壁なのだろう。幸は時折り、瞬きをする以外に特に目立った動きをすることはなかった。
ただ、時間だけが流れていた。正面の壁にかけられた白を基調とした時計の秒針がゆっくりと時を刻み、その中でただ、幸を見つめていた。
幸が寝返りをうった。小さな背中をこちらに向けて、また幸は身動き一つとらず、時間の流れに身を任せていた。
――これが幸の日常になるのだろうか。ただ時間の流れるままに身を委ねて、心を殺すように、ただ時間を消費していくだけの日々。
小さな背中を向ける幸がだんだんとゆっくり死んでいくような気がした。
まるで心を閉ざしているようだった。体を丸めて寝転がる幸は、小さな殻に閉じこもり、その中で傷つかないように、誰にも踏み入られないように、自らを守るための小さな殻を身の周りに形成しているように見えた。
立ち上がって幸のそばに近寄った。手を伸ばせば届きそうなところまで近づいて、あぐらを組んで座り、幸の背中を見つめた。
――幸もいずれ忘れてしまうのだろうか。この部屋で一緒に暮らした者の事を。
川沿いを歩いていた時のことを思い出す。
空に浮かび上がっていたあの日と同じ月。変わらず続く道。並んだ二つの影。
――何も変わらないのだ。死んでしまったとしても何も変わらずに日常は続いていく。だんだんと記憶は薄れ、忘れられていく。そして「いない」ということが日常に変わってしまう。
誰からも忘れられ、誰からも思い出されずに、聞くことも、触れることも、話すこともできない孤独の中で、ただ、見つづけるだけの毎日が続く。
――耐えられる気がしなかった。
一体いつまで、この「いなくなった」世界を見つづけなければならないのだろうか。だんだんとここに生きていた頃の記憶が失われていく。忘れられていくことを見つづける。どんなに「ここにいる」と叫んでも、誰にも届くことはなく、ただ思考だけが頭を巡り、孤独の悲しみを加速させる。
どうにかなってしまいそうだった。先行きのわからない不安が心を鷲掴みにして、ぎりぎりと絞め上げていた。負の思考が頭を満たし、胸元にずっとあった不安が確かな形になって、心を掴んだ。
その時、背を向けていた幸が天井を仰いだ。ぱたりと左手が膝の前に投げ出された。
その手を上にかざして、幸は一点を見つめ、苦悶の表情を浮かべ、何か呟くとはらりと左右に涙を流した。
――幸の視線の先には指輪があった。
幸はこちらに体を向けて寝返ると、指輪を撫でて、ぼんやりとそれを見つめていた。そしてふいに強く目を瞑り、右手で左手をぎゅっと握りしめた。体を丸めて、力の限り手を握り、彼女はただ一人、泣きつづけた。
一人、孤独の部屋の中で、幸は泣きつづけた。何もできずに涙を流す幸を見つめていた。ただ二人、寄り添うようにここにいるのに、互いに孤独だった。
やがて泣き疲れたのか、幸は静かに眠りについた。
力が抜けて軽く開いた左手が、目の前にあった。指輪が蛍光灯の光を反射して小さな光を浮かべている。
幸の頬には涙の後が微かに残り、少し瞼が赤く腫れていた。
幸の悲しみが唯一の証明のように思えた。体も灰になって消えた今、彼女の心に残る悲しみが生きていた証のように思えた。
幸の隣に寝転がり、彼女の寝顔を見つめた。目の前の幸の左手にそっと手を重ねると、手は幸の手をすり抜けて、床に触れる。ほんの少しの温もりが彼女の手を通して感じられる。手の温もりとは違う微かな温もり。
触れられない手をつなぎ、そっと目を瞑った。触れている感覚が無くても、幸の手から通ってくる温もりが幸の存在を教えてくれた。幸がそこにいる。それだけで安心できた。
彼女の涙が孤独を癒してくれた。幸の悲しみが、彼女の心に生きている証だった。
無音と暗闇の中、左手に確かに感じる彼女の温もりが唯一の感覚だった。
――願わずにはいられなかった。
もし永遠にこの時が続くのならば、せめて・・・・・・。
――君のそばにいさせてと・・・・・・。
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