第2話
父さんと母さん、弟と幸、それに佳代の五人がだけが居間に残った。さっきまで狭く感じられた居間もたった五人だけになれば、ずいぶん広く感じられる。父さんと弟が、隅に立てていた大きなテーブルを部屋の真ん中において、みんなでそれを囲んだ。一人分空いているスペースに座って、ぐるりと部屋全体に視線を巡らせた。
もともとこの部屋は二部屋に分かれていた。だが、引っ越してきてすぐに部屋を仕切っていたふすまを父さんが取り払った。出入り口から見て、奥のほうの部屋に布団がしかれて、もう物になってしまった者が寝転がっている。
その足元のほうには床の間があって、そこの壁には父さんの友人が書いたらしい掛け軸がかかっている。何と書いてあるのかは理解に苦しむが、それがアートというものなのだろう、読めなくてもしかたがない。
その下にはぱっと見は綺麗な壺が置いてあるが、あれは昔、弟と遊んでいた時についおもちゃをぶつけてしまい、ひびが入っている。ここからは見えないが、反対側にはその痕が今も残っていて、ちなみにそのことを知っているのは、弟だけで、父さんと母さんは何も知らない。
弟が急に立ち上がった。頭の後ろを掻きながら、どこか申し訳なさそうに、何かを言って、幸と佳代に向かって小さく頭を下げた。幸は口元だけ笑顔を作ってお辞儀を返し、それを見た弟は、父さんたちにことわって、部屋を出て行った。
弟がいなくなって部屋の空気が変わるわけでもなく、その場の空気は粘着性を持ったようにからみついて、みんなの喉もとを絞め付け、沈黙を作り出していた。
父さんが視線を布団のほうへと向けた。みんなもそれに続いて視線の先の布団を見つめた。
母さんが寂しそうな表情でなにか呟く。父さんは少し難しい顔をしながら、誰にも気付かれないように、下唇を噛んだ。
最も長い時間を一緒に過ごした二人だった。力強い腕に支えられてきた。温かい眼差しで見守られてきた。父さんの丸くなった背を見ると、母さんのほんの少し白髪の混じった黒髪を見ると、あまりにも早い別れだったと思ってしまう。
母さんが、幸と佳代に向き直って、頭を下げた。深く、たっぷり長く頭を下げる母に、幸も頭を下げて応えた。俯く母さんの目から、雫が落ちた。
父さんが母さんの背中を撫でて、立ち上がると、幸たちに一声かけてから部屋を後にした。
部屋には二人だけが残された。幸と佳代。彼女達は幼馴染だった。高校生になるまで、ずっと二人は一緒だったという。
幸にはあまり友達がいない。知り合った頃は、どちらかといえば無口で、とっつきにくい印象を受けた。
性格も雰囲気も正反対の佳代だけしか、友人らしい友人を知らない。
幸と知り合ったのは、高校時代に佳代から紹介されたのがきっかけだった。合コンとかそういうのではなく、急に呼び出されて、この子が幼馴染の幸、よろしくね。といきなり紹介された。それから、よく三人で遊ぶようになって、そして数年を経て恋人同士になった。
そっと、佳代が幸の手を握った。佳代が優しい表情で、幸に語りかける。幸が何かを言おうと口を開くが、言葉を発する前に、はらりと、頬を涙が濡らした。
幸の心に溜め込まれていたものが、一気に流れ出したようだった。あふれ出てくる感情の波に耐えられず、今まで我慢していた悲しみをぶつけるように涙を流した。
佳代はそっと幸の体を抱きしめた。ポンポンと、子どもをあやすように、背中を叩くと、ぎゅっと抱きしめて、彼女も幸にはわからないように涙を流した。
――――見てはいけなかったような気がした。二人だけの空間に踏み入ってしまった気がして、思わず、視線を逸らして、布団の敷いてある部屋へと逃げ込んだ。
二人を背にして布団の前に座る。後ろでは今も彼女達は泣いているのだろう。布団に目をやると相変わらずそれは冷たく眠っている。こいつのせいであの子達は泣いているのに、ずいぶんと呑気なものだ。
明日になると、これも焼かれて灰になってしまうのだろう。そうなれば、あの子達に降りかかる悲しみも一緒になって燃えてくれるだろうか。煙になって消えてくれるだろうか。
ただ、身の回りの悲しみが心に刺さっていた。たくさんの人の悲しみを心が感じていた。ずっと遠くにあるものだと思っていたことが、身に降りかかって、その大きすぎる意味を知って、後悔が胸によぎった。
どうして、死んでしまったのかと。
夜の道を二人は駅に向かってゆっくりと歩いていた。視線の先には広い川が続いていて、二人はその川沿いを歩いている。昼間見ると排水で汚れて濁っているのだろうけど、今は夜の闇が助けて、小さな月を映し出す綺麗な川に見える。
肩を並べ、二人に歩調を合わせて、ゆっくりと歩く。隣に歩く幸と佳代は話をしている。楽しい話、というわけではないらしく、二人とも笑顔ともつかない表情を浮かべていた。
よく三人でこの道を歩いた。夜遅く遊んだ帰りに、こうして月の下、三人で歩いていた。
駅近くに、高校時代によく利用したレストランがあって、学校が終わると、佳代とそこで幸を待った。
三人のうち、一人だけ違う高校に通っていた幸は、学校の距離とか、授業時間の差から、いつも到着が遅れてしまうのだ。だからいつも佳代と、窓際の席を取って、ゆっくりと待つ。すると佳代の携帯がほんの一瞬鳴る。外を見ると、私立女子高の制服を着ている幸が小さく手を振って、合図を送ってくる。それから、三人での遊びが始まるのだ。
遊ぶといっても、だいたいは決まっていた。カラオケに行ったり、買い物に行ったり、昼からの時は食事を挟んだり、本当にいろんなところへ行った。
空を見上げると、今も昔と変わらない、欠けた月がぽっかりと浮かんでいる。それを見ると、何も変わっていないような気がしてくる。遠くに見える月も、隣を歩く二人も、何もかも。
左手には民家があり、そこから漏れる暖かい灯火がわずかに二人の肩を照らしていた。街灯の光と、民家から漏れる光とが交互に道を照らし、右手に見える川はその光を反射して煌いて見えた。
学生の頃と何も変わらない風景だった。夜遅くまで遊んだ帰りはいつも二人を駅まで送った。その帰り道、その日の楽しい記憶に浸りながら、月を背に歩いた。
三人、いつも一緒だった。本当に充実していた。
川を挟んだ反対側の道路に一台、車が通る。遠くのライトが当たって、二人の影は長く伸び、走り去ると同じに、影も姿を消す。
この変わらない風景の中のほんの少しの変化なんだろう、二つの影を追いながら思う。
欠けてしまった一人。肩を並べていてもすでにいない一人。
また空を見上げた。やはり変わらずに欠けた月が浮かんでいる。
幸は帰り道で、月を見上げていつも一つコメントをつけていた。単なる独り言だったのだろうけど、今でも呟く姿が強い印象として記憶に残っている。
見上げる視界の隅に、月を指差す白い手が伸びた。手に沿って視線を下ろしていくと、幸がその瞳に月を映して、指差していた。そして一言呟いた。
幸はただ、変わらないね、と呟いた。
月を見つめて、そう呟いた。
幸の言葉が頭の中を巡っていた。変わらない。何も変わらない。
――――そう、変わらないのだ。
三人でずっと歩いてきた道は、たとえ二人になろうと、何の変化もありはしない。夜空に浮かぶ欠けた月も、流れていく川も、民家の中の暖かい生活も、この足元から続く道でさえも、何も変わりはしないのだ。
ただ一人、立ち止まってしまった。
二人はそれでも前へと進みつづけるのだろう。一人いなくなったところで、変わりなく、日々は削られ、無情に過ぎていく。それを追いかける術もなく、誰かに手を引かれることもなく、ただ一人、たった一人で通り過ぎていく日々を見つづけることしかできない。いつまで続くかもわからない、孤独の中で・・・・・・。
堪らず、不安を取り払うように、頭を左右に振った。考えを外に追い出してしまいたかった。
回る世界の隅に幸の姿が流れ込んだ。幸は変わらず月を眺め、しばらくそうしていた幸は佳代に向かって何かを語りかけると、ようやく視線を前へと戻した。
二人の間に沈黙が訪れた。どんな言葉を掛けていいのかわからないのだろう、互いに言葉を発することを躊躇しているのが、はっきりと見て取れた。
沈黙は長く、駅のホームに辿り着いた後もしばらく続いた。
ぱらぱらとパネルがめくれて、列車の到着案内が次の列車の時間を知らせていた。ホームにはまばらに列車を待つ人が立ち、幸たちもその中に混じった。
幸たちの横に立って、二人の表情を窺う。
幸は線路でも見つめているのだろうか、俯いていて、はっきりと表情は窺えない。
沈黙の中、静かに列車が通り過ぎた。通過する列車から漏れる光の明滅が二人を照らし、連れられてきた風が二人の体を撫でた。
列車に乗っている間、二人の間に会話はなかった。ただ座って手元をいじる幸と、かける言葉を見つけられず、戸惑う佳代の姿があった。
ホームが近づき、幸が立ち上がると、佳代も幸を見送るために、座席から腰を上げた。車内が一度、大きく揺れた後、駅に停車した。扉が開き、幸は佳代に一言、別れを告げて、ホームに降りた。
それじゃあ、またね。佳代の唇がそう動いたのを見て、幸は一つ頷き返してから、佳代に向かって、わずかに笑んで見せた。
扉が閉まるまでの間、佳代は幸から視線を逸らしていた。佳代は歯を噛みしめて、ゆっくりと上目遣いに幸を見つめた。
扉が閉まりきる寸前、佳代はようやく言えずにいた言葉を発した。
――がんばって。
そう唇が動いて、扉が閉まった。扉の向こうで、小さく手を振る佳代がだんだんと遠ざかっていき、やがて列車は夜の闇の向こうへと消えていった。
ホームはしんと静まり返っていた。駅の構内へ続く階段の前に幸は一人で立っていた。辺りに誰もおらず、頼りない蛍光灯のスポットライトを浴びて、幸は一人、呟いた。
その表情は佳代の言葉を肯定しているようには到底見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます