そばにいさせて
佐渡 寛臣
第1話
そばにいさせて
1
久しぶりに実家の門扉の前に立った。長年その役割を守ってきた鉄製の門扉は、ところどころペンキが剥げ、その向こうには赤錆が見え隠れしている。
ちょこんと門の上に座っているポストを覗き込んでみると、何年前のものかは知らないが、枯れ葉が一枚あるだけで、それ以外は何も投函されていない。
門を越えてすぐに横に、小さな庭がある。生まれて十数年ここで暮らしてきたが、自由気ままに背伸びをしている松の木以外、他の木の名前は知らないままだったな、と気付く。
松と名前も知らない木との間に一匹の黒猫が横になってぼんやりとしている。辺りは、じりじりと熱気で満ちているのだろうが、猫はそんなこと構いもしないで、日陰でのんびりとしている。
庭とは反対側にある駐車スペースには父さんの車が止まっている。父さんの、と言ったが父さんは電車通勤をしているから、実際には母さんのほうがよく乗っていたような気もする。でも、できる限りの用事を近所で済ます母さんの移動手段は、ほとんど自転車か徒歩だったから、この車の出番といえば旅行に行くときに乗るくらいなもので、そうするとこの車は持ち主が定まっていないということになる。
車の向こう側に、家の中が窓越しに見える。蛍光灯は光を落としているため、昼間でも中は薄暗い。父さんも母さんも奥の居間にいるのだろう。
玄関先に戻ると、やっぱり猫はそのままで目をうつらうつらさせている。案外柔らかい風でも吹いているのかもしれない。意外に庭の影は涼しいらしい。
正面に立って玄関の扉を見ると、まあなんというか、これがまた汚い。横にスライドさせて開くタイプの扉なのだが、枠の隅のほうには蜘蛛の巣が貼っているし、泥のはねた跡が下のほうにこびりついている。気付いていたなら掃除もしただろうに、これも気付かないままだった。
ふと振り返ると、高校時代からの友人が立っていた。彼女は何も言わずに、少し眉を寄せて、呼び鈴に指を伸ばすも躊躇いつつ、また戻した。
彼女は――佳代は昔からどうもこの呼び鈴を鳴らすのが苦手だった。なぜかと訊ねると、呼び鈴を鳴らしたときに出る音が気にくわないのだと、佳代はよく言っていた。
久しぶりに見る彼女の顔はどこか暗く、瞳は寂しげだった。
佳代は呼び鈴の前で、しばらく表情を曇らせて躊躇していたが、結局、呼び鈴を押した。待っている間に、彼女は長い黒髪を手で少し整えて、特に目立った汚れも見当たらない服を手で払い、大きく深呼吸をして家主が顔を出すのを待った。
深く息を吸って、佳代が胸の奥に溜まった不快感を吐き出すようにため息をついた。彼女は呼び鈴を視界に入れないように、家主の反応を待った。
ふと佳代が門の向こう側に一匹の黒猫に気付く。猫は佳代のことに気付いていたのか、じっと佳代を見つめている。日陰でのんびりしていたところを邪魔されたと感じているかもしれない。猫は体を起こしていつでも飛び出していけるように身構えていた。
猫は身動き一つ取らず、佳代の動向を窺い、しっぽ一つも動かさずにじっと見つめていた。微かな緊張が感じられる。佳代もそんな猫をじっと見つめていた。
視界の隅に見える玄関に人影が映った。猫もそのことに気付いたのか、ぴくりと耳を動かす。
扉が開いて、喪服に身を包む女性が顔を出した。母さんだ。さらりとした黒髪が風に揺れた。
佳代が一つ頭を下げてから、母さんに導かれるままに門をくぐった。隣に見える庭には、すでに猫の姿はなかった。
母さんに招かれて、家に入る佳代に続いて、足を踏み入れると、昔と変わらない風景がそこにあった。違うことといえば、玄関の靴の数くらいなもので、そんなことはたいした違いではない。清掃の行き届いた廊下を進んでいくと、途中に洗面所、階段があり、覗き込んでみると、どちらも明かりは落ちていて、薄暗く、階段の奥の暗闇はどこか重たく感じられた。それらを通り過ぎ、突き当たりの扉を母さんは静かに開けた。どうぞ、と母さんの口が動いたのがわかった。
部屋の真ん中には布団が敷かれていて、その脇に父さんと弟、そして妻の
妻の幸も、何も言わずにいた。ただ佳代を見つめ、一つ頷き、その後深く頭を下げた。佳代もかける言葉を見つけられずに、礼を返すのみだった。
母さんは父さんの隣に正座して座ると、佳代になにか言葉をかけた。彼女はそれに頷いて答えると、布団の中で横たわっている人物に近づいて、そっとその顔を覗き込んだ。
それは意外に安らかな顔で目を瞑っていた。
それを訝しげに見下ろしていると、ふっと佳代の白い手が、横たわるものに向かって伸ばされた。
佳代は恐る恐る、そして優しく唇に触れると、そっと頬を撫でた。手にはきっと冷気が息をしないそれを通じて伝わっているのだろう、それでも佳代は撫でる手を止めなかった。
ちらりとその顔を覗き込んでみると、彼女は微かに口の端を上げて、笑顔を作っていた。まわりの友人達を見ると、歯を食いしばったようにしている人、涙を流している人。それぞれの「悲しみ方」が顔に浮かび上がっていた。歯の軋みが、喉の嗚咽が、耳に届いてくるようだった。
その中で、佳代は一人笑顔を作っていた。頬を撫で、何かを語りかけるような目で横たわるそれを見つめていた。その目元は作り上げた表情に上手くついていけずに、時折り、深く瞑っては、眉を寄せていた。
傷みの無いように見せる彼女の痛みがその姿からじかに伝わってくるようだった。胸を啄ばまれるような痛みに包まれ、見ていられなくなって、つい目線を逸らした。
逸らした先に幸がいた。幸は何も言わずにそんな佳代を見つめていた。どんな表情を作っているわけでもなく、ただ幸は、佳代を見つめていた。隣にいる弟は、そんな二人を見ていられないのか、二人から目を逸らすように、視線を床へと向けている。その両の拳は硬く閉ざされ、震えていた。
しばらくして佳代が頬を撫でるのを止めた。佳代は父さんと母さんと、幸と弟に向かって頭を下げて、それの前から離れた。
しばらくして、父さんが佳代を含めた友人達になにやら話をはじめた。辛そうに言葉を綴る父さんの姿が嫌に目に焼きつく。
父さんと母さんは来てくれた友人たちに何度も頭を下げた。
話が終わると同時に人が、ちりぢりに帰っていった。
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