スクワットウーバーイーツ

クソプライベート

脚で届く範囲

鈴がちり、と鳴った。富士山頂の売店の前に、配達バッグが着地した音だ。

 「一回で来たの?」管理人さんの声が裏返る。

 「はい。スクワットとデッドの複合で」

 酸素は薄い。けれど膝は温かい。ラップの消臭スプレーの匂いが、風より頼もしい。

 始まりは五年前。ジムの更衣室で電波の悪いスマホが鳴った。配達アプリの通知。山麓の茶屋から「山頂までおにぎり二十」。無茶だ。でも、壁に貼った自分のメモが目に入る――〈あと一回だけ〉。

 僕は深呼吸し、フリーラックの前へ。バーを担ぐ。しゃがむ。立つ。二百回。次はデッド。床から引き上げる。握力が焼ける。タンパク粉末のボトルがカラカラと鳴った。

 外に出る。膝ラップを締め直し、配達バッグのベルトを斜めにかける。足裏で地面を探る。「三で吸って、三で吐く」――昔のコーチの口癖が勝手に再生される。

 跳ぶ。

 空気がたわむ。耳が置いていかれる。雲が一枚のラベルみたいに剥がれ、次の瞬間、鈴が鳴る。売店の中から拍手。僕はおにぎりを一つだけ買って、自分の分として口に入れた。

 「どうしてそこまで?」と聞かれ、僕は適当に笑った。「距離は、脚で縮める主義なんで」

 実際のところ、理由はもっと小さい。母の口癖だ。「ごはんは温かいうちが正義」。それを守りたかっただけだ。冷める前に届けたい。脚で届く範囲を、ちょっとずつ広げたい。

 ――五年後。

 アプリがまた鳴る。差出人はJAXAの食堂、届け先は「ISS・きぼう実験棟」。冗談みたいな正式依頼だ。規約の盲点で「人力跳躍」は航空法の対象外だと聞いて、笑ってしまった。

 準備は簡単で難しい。配達バッグを耐圧仕様に換装。断熱フィルムを二重。ラップは新品。トレノートの最後のページに大きく書く――〈あと一回だけ〉。

 カウントダウンも、司会もいない。僕はいつものように、静かに膝を曲げ、静かに伸びた。夜空が近づく。街灯が線になり、風が針金のように固くなる。成層圏でラップが少し焦げる匂い。心拍が速い。ここで恐怖に負けたら、料理が冷める。

 再び、雲が一枚で剥がれる。黒い窓が現れ、横に「KIBO」の文字。僕はエアロック前のマグネットパッドに靴を貼りつけ、インターフォンを押した。

 「ウーバーです。ご注文の“温玉カレー”と“みそ汁”」

 中から笑い声。ハッチが開く。無重量の手がバッグを受け取る。湯気がゆっくり球になる。

 「どうしてそこまで?」と、宇宙飛行士。山頂と同じ質問だ。

 「距離は、脚で縮める主義なんで」同じ答えを言いかけて、やめた。

 「……温かいうちが、正義だから」

 沈黙。次に拍手。通信越しに地上の誰かも笑っている。

 帰り道は重力が味方だ。落下に合わせ、雲を二枚、三枚と剥がす。膝はまだ温かい。ラップは無事。バッグの底で、空の味噌汁容器がコトンと鳴った。

 着地。いつもの公園。自販機の前で息を整える。夜風が冷たい。けれど心は軽い。

 家に戻ると、冷蔵庫に昔のメモがまだ貼ってあった。〈あと一回だけ〉。僕は上からもう一枚、紙を重ねる。〈温かいうちに届ける〉

 脚で届く範囲は、今日また広がった。次に鳴る通知がどこからでも、やることは同じだ。膝を曲げ、伸ばす。温かいうちに。

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