天国を待つための本

 あまりの眠気にうつらうつらと電車で船を漕いでいると、いつのまにか、わたしの向かいの席に、あたりかまわず書物を積み上げている男がいた。座席のシートにも床の上にも本が散らばっている。男はその本の山から一冊取り出してページをめくっていたかと思うと、すぐに別の本を手に取り、いま読んでいた本はページを開いたままシートに伏せて置いた。まるで不精な横着者の書斎だ。

 わたしと男が座っているのは四人がけのボックス席だったが、わたしの視界がおかしいのか、寝ぼけているせいか、向かいの男との距離がひどく曖昧で伸び縮みしているように思えた。手で触れられるほど近いような、対岸にいるほど遠いような、焦点が定まらない不思議な感覚。

 わたしの視線に気づくと、男は急に甲高い声をあげた。

「ああ、失礼! どうも目移りしてしまって。なにしろ目的地に着くまで呆れるほど時間がかかるでしょう? これを機に、いままで触れていなかった長い小説でも読もうかと思ったのですが、どれもこれも短すぎる。『失われた時を求めて』、『源氏物語』、『特性のない男』、『ユリシーズ』、『ドン・キホーテ』、『宇宙英雄ペリー・ローダン』、『大菩薩峠』…………あちらの図書車輌から目ぼしい本を借りてきましたが、ぜんぶ足してもまだ足りませんよ。すべて読み終わっても腐るほど時間が余る」

 あちらの図書車輌? そう言われて隣の車輌へ続く扉を覗いてみると、なるほど、座席の代わりにいくつもの書棚が見える。その移動する図書館のような空間は、奥へ奥へとひたすらにのびていくように見え、いったいどこまで続いているのか、ここから覗いただけでは皆目わからない。

 男はなおも喋りつづけている。

「体を動かして待ちたい乗客には、反対の車輌に卓球台なども用意されていますがね。しかし、そんなに長く卓球なんてやってどうするんです? ダメですよ、つまらない。卓球なんて、温泉地の風呂上がりに五分もやれば十分です」

 あなたはどこの駅で降りるのですか、とわたしは男に訊いてみた。

「天国ですよ、もちろん。天国です。天国のはずです。天国だと私は信じています」

 男は自分に言い聞かせるようにまくしたてた。

「ですが、天国への道のりはあまりにも長い。電車が用意されているのは不幸中の幸い、地獄に仏、至れり尽くせりと言いたいところですが、どうしてくれるのですか、この果てしなく長い悠久の移動時間を。どうやってこの無窮の退屈をしのげばいいのですか。本は読める。いくらでも読める。だか短すぎる。すべて短すぎる。いったい、こいつらは何を考えてこんな本を書いたんですか? 天国を待っている乗客のことを少しは慮(おもんぱか)って書いてくれたのですか?」

 失礼ですが、とわたしは口を挟んだ。もっと別の本を読んだ方がいいんじゃないですか?

 男は訝(いぶか)しむような表情でこちらを向いた。

「どういうことです? もっと適切な本があるというのですか?」

 いえ、わたしにも特に考えがあるわけではないのですが……。つまり、それらの本は生きている人間の書いた、生きている人間のための本でしょう? この世に生きる人間について、人間が生きる世界について、書かれているわけでしょう? もしも、あなたがいまから天国に向かうというのなら、天国の人間が書いた本とか、天国の景色が描かれた本とか、天国で生まれる哲学とか死生観とか、天国に行くにあたっての心構えとか用意とかについてとか、わかりませんよ、わたしにはわかりませんよ、わかりませんけど、なにかこう、いまのあなたにもっとふさわしい本が、どこかにあるんじゃないですかね……。

 男は不満げに口をとがらした。

「ダンテの『神曲』やスウェーデンボルグの『霊界日記』や丹波哲郎の『大霊界』を読めということですか?」

 いえ、それらも先ほどの本たちと本質的には変わらないと思います。わたしが言っているのは、もっと別種の……。

 男は不意に声を荒らげた。

「あなたの言っていることはさっぱりわからない! どうせ、あなたも卓球派でしょう? 本なんて捨て置いて、天国を待つあいだ、しっぽり卓球をお楽しみってわけだ! エセ神学者め! まだ生きているあなたに、天国を待つ乗客の孤独なんてどうせわかりやしないんだ! さあ、降りた降りた! ここはあなたの降りる駅でしょう?」

 言われてみると、窓外の風景はわたしの降りる地上の駅だった。わたしは寝ぼけた頭のまま、荷物を引っ掴んで電車を降りた。振り返ると、車窓の向こうで、男はわたしに向かってあっかんべーをしていた。片目の下まぶたを指で引き下げ、舌を突きだし、全身でわたしを侮辱するポーズを取っている。実に大人げない。子どもっぽい。とはいえ、天国は斯(かく)のごとき者の国なり、と幼児(をさなご)について語っていた本もあったか。

 わたしを駅に残して、その男の乗る電車は去っていった。もう夕暮れだった。侘しい田舎駅は閑散としていた。

 わたしはいまもまだこの世に生きていて、いつ天国に行くことになるのか、そもそも向かう先は本当に天国なのか、あの男と同じような道のり、同じような乗り物で行くことになるのか、なにひとつこの世に生きるわたしにはわかりはしないが、それでもあのとき以来、ふと疑問がよぎることがある。

 天国を待つあいだ、どんな本を読みたいだろう?

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