第39話 駆け落ち

振り返らず、ただ前だけを見て走った。


春休みのある夜。


夕食は、恵理子がいつも通りに用意してくれた。

ここ最近は変わり映えのしない、簡単な夕食。


母と三人で並んで食卓を囲みながら、

まるで何事もなかったかのように時間は流れていく。


食後、恵理子は「行ってくるね」とだけ言い残し、仕事へ出ていった。

その背中を見送りながら、私は胸の奥で——これが最後になる、と静かに悟る。


玄関の扉が閉まる音を聞き終えると、

私と沙耶はすぐに立ち上がった。


準備していたキャリーケースを手に取る。

部屋を出る前、沙耶は机の上に一枚のメモを置いた。


そこには、こう記されていた。

「私たちのことは心配しないでください」


二人で玄関のドアを開ける。

浩司が帰宅する前に、母が戻る前に。


冷えた夜気が肌を刺し、胸の奥がざわつく。

けれど、私たちは一度も振り返らず、

ただ前だけを見て歩いた。


電車に乗り、二人並んで座席に腰を下ろす。


車内は春休みの夜の空気に包まれ、

窓の外にはまだ街の灯りがちらついている。


座席の前にはスーツ姿のサラリーマン、

スマホを見つめるOL風の女性。


皆、当たり前の日常を終えて帰路につこうとしている。

その中で、キャリーケースを抱えた私たちだけが、

別の時間を生きていた。


まるで異質な存在のように。


膝の上に置いた手が、沙耶の手とほんの数センチの距離にある。

触れたいのに、人目を気にして伸ばせない。


揺れる車体に合わせて指先がかすかに触れそうになるたび、

心臓が跳ね上がった。


その緊張と甘さが、胸いっぱいに広がっていく。


手元のキャリーケースが、やけに重く感じる。

けれど、その重みは私を押し潰すものではなく、

未来へと連れていく確かな現実だった。


車窓に映る自分の顔を見つめながら、私はこの一年を思い返す。


母から突然告げられた結婚の話。

私は驚きながらも、反対の言葉を口にすることはできなかった。


一人では生きていけない。

母と一緒にいるためには、選択肢などなかった。


紹介された浩司と、その娘の沙耶。

浩司は表向き誠実そうに振る舞い、母には頼れる存在だった。


けれど私にとっては、

あくまで“家計を支えてくれる大人”にすぎなかった。


母もまた、家計を支えるためとすぐに仕事に戻り、

家庭で交わされる言葉は必要最低限に限られていた。


そしてあの夜——

浩司の手が私に伸びかけたとき、

私は初めて「逃げ場がない」という絶望を知った。


母に言うこともできず、ただ心に鍵をかけて沈黙するしかなかった。


それでも、この家での日々を生き延びられたのは、沙耶の存在があったからだ。


彼女の笑顔や、勉強を教えてくれる優しい声が、

暗闇の中の小さな灯りのように私を支えてくれた。


もし沙耶がいなければ、この一年を耐え抜くことはできなかっただろう。


「結菜、大丈夫?」


沙耶が隣でそっと声をかけてくる。

私は頷き、小さな声で返した。


「うん……大丈夫。沙耶と一緒だから」


そう言って、私はそっと手を伸ばし、彼女の手を握る。

沙耶も強く握り返してくれた。


その温もりが、未来への確かな約束のように感じられた。


街の灯りが遠ざかり、窓の外はやがて闇に包まれていく。


私たちを乗せた電車は、都会の夜を抜け出し、

知らない未来へと静かに進んでいた。

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