第40話 辿り着いた場所
たどり着いたのは、二人だけの新しい日常だった。
春休みの夜。
空は群青色に染まり、街灯の明かりが路面に長い影を落としている。
遠くの建物の窓から漏れる光は柔らかく、街全体を包み込んでいた。
まだ夜の冷たさが残る風に、
少し湿った土の匂いや、遠くの桜の花の香りが混ざる。
足元の落ち葉や小枝が、かすかにカサリと音を立て、春の気配を知らせる。
日中の喧騒は遠く、通りの車もまばら。
聞こえるのは、鳥の夜鳴きと風のさざめきだけ。
冬の残り香を含む空気に、春先の柔らかさが溶け込み、
歩く私たちの頬をかすかに撫でていった。
電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、
私たちが辿り着いたのは——沙耶の母方の祖母の家だった。
二階建ての一軒家。
周囲は閑静な住宅街で、木造の家々が静かに佇んでいる。
玄関を開けると、柔らかな灯りが私たちを迎えた。
「……よく来たね」
迎えてくれたのは、沙耶の祖母・文子。
七十代前半、小柄な体に穏やかな笑みを浮かべ、
静かで優しい声でそう言った。
文子は、夫に先立たれ、
一人娘であった沙耶の母も若くして亡くし、今は一人暮らしだという。
けれど、その眼差しには孤独よりも、深い受容の色があった。
「お腹すいているでしょう。簡単だけど、温かい夕食を用意したからね」
台所へ案内されると、湯気の立つ煮物や小魚、
柔らかい香りの汁物が食卓に並んでいた。
外の春先の夜風が窓から入り、
ひんやりとした空気が部屋に混ざる。
その冷たさと、煮物の温かい匂いが交錯し、
胸の奥に固まっていた緊張がゆっくりほぐれていく。
遠くの路地から聞こえる夜の足音、
庭の木々を揺らす風の音が、静かに時間を刻んでいた。
私たちはそっと席につき、
春先の夜の穏やかさと祖母の優しさを肌で感じた。
沙耶と文子は、以前から電話でやり取りをしていたらしい。
事情もすべて承知したうえで、こうして私たちを受け入れてくれたのだ。
沙耶は数年前の母の法事以来の再会。
私は初めて会う緊張を抱えていたが、
その温かな眼差しに、胸のこわばりが少しずつ溶けていくのを感じた。
二人に与えられたのは、二階の一室。
かつて沙耶の母が使っていた部屋だった。
洋服ダンス、鏡台、そして壁際に置かれたベッド。
時間が止まったように、そのまま残されている。
「ここで休むといい」
文子がそう言って扉を閉めると、静寂が部屋に落ちた。
私と沙耶は並んでベッドに腰掛けた。
二段ベッドではなく、一つのベッド。
互いに顔を見合わせるだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
この部屋で、私たちは新しい日常を始めるのだと思うと、
不思議な感慨が押し寄せた。
「結菜……もう大丈夫だよ」
沙耶が私の手を握る。
私は頷き、そっと肩を寄せた。
指先が触れ合うだけで、心が落ち着いていく。
胸の奥にあった不安が、少しずつ溶けていった。
夜。
布団に潜り込み、自然と寄り添う。
互いの体温をそのまま感じ、指先を絡め合った。
「ずっと、一緒にいよう」
その言葉が口に出た瞬間、涙がにじむ。
悲しみではなく、安堵と喜びの涙だった。
窓から差し込む月明かりが、狭い部屋に柔らかく広がる。
二人の影は、自然とひとつに重なった。
逃避の果てに辿り着いたのは、確かな安らぎだった。
そして——新しい日常が、静かに、でも確かに始まろうとしていた。
<完>
**********
作者あとがき
ここまで読んでくださった皆さまへ。
「二段ベッドの物語」は、ひとまずこの第40話をもって一つの幕を閉じます。
結菜と沙耶が出会い、戸惑い、傷つきながらも互いを見つけ出すまでの物語。
この章は“逃避”でありながら、“再生の始まり”でもありました。
けれど——二人の物語は、まだ終わりではありません。
彼女たちは、これから新しい土地で、
自分たちだけの未来と向き合っていくことになります。
その先にあるのは、希望か、それとも試練か。
どんな結末が待っていようとも、ふたりの歩みは止まりません。
どうかこの続きを、また見届けてください。
——いつか、次の春に。
二段ベッドの下で、禁じられた恋が始まった 凪野 ゆう @You_Nagino
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