第38話 崩壊していく家族
声と音が、家を引き裂いていく。
その夜、私と沙耶は部屋に籠もり、明かりも消して息を潜めていた。
壁一枚を隔てた向こうから、リビングの声が響く。
最初は抑えた口調だった。
けれど、この一年の間に積み重ねてきたすれ違いは簡単に隠せず、
言葉は刃のように鋭さを増していった。
「あなたなんかに分かるわけない!」
母の声は泣き声に近く、震えていた。
「勝手に仕事を続けて、家庭を顧みないのは誰だ!」
浩司の怒声が重なり、扉がびりびりと震えるように響く。
食器が弾ける音。
テーブルを叩く鈍い衝撃音。
家そのものがきしむようで、私は思わず両手で耳を塞いだ。
——こんな母の声を、私は知らなかった。
幼い頃から、母は怒鳴ることもなく、叱ることも褒めることもなかった。
笑顔を向けられた記憶も少ない。
ただ、疲れきった背中を追いかける日々が続いた。
小さなアパートでの二人暮らし。
授業参観も運動会も、誰も来てくれなかった。
それが当たり前だと思っていた。
母は夜遅くまで働き、家にいるときはいつもぐったりと横になっていた。
私は寂しさを抱えながらも、
母が自分を育てるために必死で働いていることだけは分かっていた。
だから何も言えなかった。
——でも、本当は叱られたかった。
悪いことをしたら怒ってほしかったし、頑張ったら褒めてほしかった。
「あなたのことをちゃんと見ている」と、言葉で示してほしかった。
けれど母は一度も、大声でぶつけることも、抱きしめて褒めることもなかった。
それが優しさだったのか、無関心だったのか——今でも分からない。
そして去年、母は結婚を選んだ。
新しい姓を名乗り、新しい家に入り、新しい「家族」を持つことになった。
振り返れば、この一年はあっという間だった。
けれど、その短い時間で、私の人生は大きく変わった。
——沙耶と出会ったから。
義姉として出会った彼女こそ、私にとって初めての「本当の幸せ」だった。
母と過ごした日々のどの記憶よりも、
沙耶と交わした時間が鮮やかに胸を満たしていた。
だからこそ今、壁越しに母が泣き叫んでいても——私はもう揺れなかった。
母をかばいたい気持ちは確かにあった。
けれど、母は母で生きていくしかない。
そして私は、沙耶と生きていく。
「……結菜」
下段の布団から、沙耶がかすかに私を呼んだ。
「私は大丈夫だよ」
できるだけ落ち着いた声で答える。
互いの姿は見えなくても、言葉だけで心がつながっていた。
それで十分だった。
耳を塞ぎ、目を閉じ、ただ夜明けを待ちながら——
揺れる家の音も、怒号も、すべてはもう遠くに感じられた。
心の奥で、沙耶の存在だけが確かにあった。
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