第37話 密かな荷造り
静かに箱に詰めるのは、未来への覚悟だった。
浩司は、私たちが起きる前に家を出ていく。
台所からはトーストの香ばしい匂いと、ハムエッグの湯気が立ちのぼる。
恵理子は「冷めないうちに食べなさい」とだけ言い、私たちに箸を渡した。
会話のない食事。
それでも、母と並んでパンと卵を口にするだけで、
どこか“家庭らしさ”を装っているように思えた。
食事を終えると、私は沙耶と並んで玄関へ向かう。
靴を履き、扉に手をかけたとき、背後から恵理子の声がした。
「……いってらっしゃい」
振り返ると、彼女は少しぎこちない笑みを浮かべていた。
私と沙耶は顔を見合わせ、普段よりも少し明るく声をそろえる。
「行ってきます」
吹っ切れた表情で。
その背中に、母が何を感じ取ったのかは分からない。
けれど、私たちの心はすでに家の外の未来を見つめていた。
逃避の決意を交わしてからの日々、
私たちは普段どおり学校へ通い、
家では恵理子に悟られないように過ごした。
顔を合わせれば「おかえりなさい」「いただきます」と口にし、
笑顔も作った。
その裏で、夜になると二人きりで密かに準備を進めていた。
相変わらず浩司は、私たちが起きる前に家を出て、
深夜に帰宅する。
食卓に座ることもなく、家にいるのかどうかも分からない。
二人は浩司と顔を合わせることもほとんどなくなり、
その存在は空気のように希薄になっていた。
夕食を終え、母が仕事に出かけた後の時間。
二段ベッドの下に並べた二つのキャリーケースに、
最低限の衣類や日用品を少しずつ詰めていく。
厚手のセーターや制服の替えを畳み、
片側のスペースには下着や洗面用具を入れる。
ノートや筆記用具も入れようか迷い、結局は外に置いた。
過去を象徴する写真や小物には手が伸びたが、
何度もためらった末、静かに引き出しへ戻した。
詰め込むのは荷物よりも、未来への覚悟だった。
春休みが近づくある夜、私はそっと沙耶に尋ねた。
「……ねえ、どこに行くの?」
彼女は一瞬だけ黙り込み、すぐに私の目を見て微笑む。
「一緒なら大丈夫」
ただそれだけを告げた。
不安は確かに胸を占めていた。
けれど沙耶の言葉に、私はそれ以上を求めなかった。
——沙耶のことだから、きっと大丈夫。
その信頼が、私の唯一の支えになっていた。
後になって思えば、あの頃の沙耶はすでにどこかと連絡を取り、
算段をつけていたのだろう。
けれど、その内情を私は知らない。
ただ、彼女の背中を信じるしかなかった。
ある晩、布団に潜り込んだとき、下段から小さな声が届いた。
「結菜、もうすぐだよ」
私ははっとして身を起こす。
「春休みに入ったらすぐ、決行する」
沙耶の声は真剣で、震えも迷いもなかった。
「どうやって出ていくの?」
「恵理子さんが仕事に出かけた後を狙って。
荷物は最低限でいい。誰にも気づかれないうちに」
「……うん」
闇の中で交わした小さな会話は、約束のように胸に刻まれた。
心臓が早鐘のように打ち、恐怖と期待が入り混じる。
けれど胸の奥を満たしていたのは、確かな安堵だった。
頬を伝ったのは、悲しみの涙ではない。
沙耶と新しい生活を始められるかもしれないという、
喜びの涙だった。
その夜、私は沙耶の布団に潜り込み、二人でぴたりと寄り添って眠った。
春休みまで、あとわずか。
すべては、その夜を待つばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます