第36話 逃避の決意

ここから二人で、抜け出すと決めた。


恵理子が家を出ていってから、数日が過ぎた。


外はまだ冷たい初春の朝。

通学路には霜が残り、吐く息がかすかに白く立ちのぼる。


家の中にもひんやりとした空気が漂い、

空席のままの椅子が、その寒さをさらに際立たせていた。


浩司は、私たちが起きる前に家を出て、夜も遅くに帰ってくる。

顔を合わせることはほとんどない。


リビングのソファに脱ぎ捨てられた上着や、

流しに置かれた空の缶ビールだけが、彼の存在を示していた。


目の前にいないのに、その気配だけが重くのしかかる。


「今日は帰ってくるのかな」


そんな不安を、私はいつも沙耶と二人で確かめ合うようにして暮らした。


学校に行っている間だけが、救いだった。


クラスメイトから「相変わらず仲いいね」と冷やかされても、嫌な気はしない。

むしろ沙耶と並んでいることが、私にとって唯一の誇れることに思えた。


授業中、先生に褒められることが増えたのも、

沙耶が隣で支えてくれたからだ。


放課後の帰り道も、二人で並んで歩けば、

家の重苦しさを一瞬だけ忘れられた。


夕暮れの空気はまだ冷たく、

淡い日差しが冬の名残を残す街路を照らしていた。


そんなある日のこと。


玄関を開けると、久しぶりに台所から包丁の音が聞こえてきた。


「……おかえり」と言いかけた声が、喉の奥で止まる。


そこに立っていたのは、以前より少し痩せた母だった。


「……お母さん」


声をかけると、彼女は驚いたように振り返り、

「……ごめんね」と小さくつぶやいた。


やつれた顔には険しさと疲れが刻まれ、

どこか別人のように見えた。


本当は問いただしたかった。

——どうして帰ってこなかったの?


けれど私は、笑ってみせることしかできなかった。


浩司から逃れたい気持ち。

住む場所を失う不安。

そして沙耶と離れ離れになる恐怖。


それらが胸の奥で絡まり合い、

息をするたびに痛みを増していく。


夕食の支度は整えられていた。


久しぶりに三人で囲む食卓。

しかし誰も言葉を発さなかった。


箸が器に触れる乾いた音だけが響く。

ときおり目が合うと、恵理子の瞳には涙がにじんでいた。


私は何も言えず、作り笑いで返すしかなかった。


食事を終えたとき、ようやく言葉を絞り出した。


「お母さん、心配しないで。私は大丈夫だから」


その一言に、母は震える唇で小さく頷いた。

その頷きが、かえって胸を締めつけた。


夜。


二段ベッドの上で、私は布団にくるまりながら眠れずにいた。

窓の外では、初春の風が木々を揺らし、

かすかな月明かりがカーテンの隙間から差し込む。


そのとき、下段から沙耶の声が響いた。


「結菜、下に降りてきて」


はっとして布団を抜け出し、梯子を降りる。

沙耶のベッドに潜り込むと、すぐに腕が私を抱きしめた。


体の奥に溜め込んでいた不安が、少しずつ解けていく。


沙耶の手が背中に回され、冷たい指先が小さく震えているのが分かった。

その震えが、不思議と私に安心を与える。


闇の中で、沙耶の瞳だけがかすかに光を宿していた。


「ここから逃げよう」


思わず息を呑む。


その言葉は刃のように胸を切り裂き、

同時に救いのように響いた。


驚きと恐怖、そして抗えない安堵。


——姉妹であることをやめ、恋人として生きる道を選ぶということ。


その重みを理解した瞬間、胸の奥から涙があふれた。


私は震える声で、小さく頷く。


こうして、私たちは初めて、同じ逃避を選んだ。


外の世界はまだ眠っている。

けれど、私たちの心だけが確かに目を覚ましていた。


それはもう、二度と戻れない道だった。

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