第35話 崩れる日常

日常の壁が、音を立てて崩れていく。

残されたのは、崩壊の残骸だけだった。


あの日以来、私たちはもう浩司と一緒に朝食を取ることができなくなった。


結菜の胸には、浩司に近づかれるだけで震える恐怖が常にあった。

ほんの些細な視線や手の動きでも、背筋が凍る。


リビングにいるだけで圧迫感を覚え、息が詰まる。

この家にいること自体が、いつ何が起きるか分からない緊張の連続だった。


沙耶もまた、父親への嫌悪を胸に秘めていた。

結菜を守るべき相手が、恐怖を生む存在になってしまったことに、

怒りと苛立ちを覚えていた。


それでも表情を崩さず、結菜を守る決意を揺るがせない。


「大丈夫」とそっと声をかける代わりに、

机の上に温かいお茶を置く。

その仕草に、沙耶の母性と庇護心が滲んでいた。


恵理子は、そんな私たちの異変に気づいていた。


「最近、部屋にこもってばかりね」


問いかける口調に、私は本当のことを言えず、俯いてごまかすしかなかった。


本当は浩司から逃れるために、この家を出ていきたかった。

しかし住む場所もなく、沙耶とも離れ離れになる恐怖が心を縛る。


孤独と不安に胸が押しつぶされそうになりながらも、

母に心配をかけまいと笑顔を作るしかなかった。


その夜。


私と沙耶は宿題を終え、そろそろ部屋の灯りを落とそうとしていた。


玄関の扉が開き、リビングからテレビの音が漏れる。

普段より早く帰宅した恵理子の足音が続く。


押し殺した声がぶつかり合い、やがて怒号へと変わった。


「どういうつもりなのよ!」

「俺だって……わざとじゃない!」


私は沙耶の隣に顔を寄せ、息を詰める。

恐怖で震える体を小さく丸めながらも、

沙耶の庇護にわずかな安心を覚えた。


沙耶の目には、父親に対する嫌悪と決意が混じっている。

——もう、誰にも結菜を傷つけさせない。


言葉の応酬はさらに激しくなる。


「……やめて!」

「言い訳しないで!」


やがて口論が途切れ、しばらく沈黙が訪れる。

次の瞬間、玄関のドアが開き、叩きつけるように閉まる音が響いた。


——おそらく、母が家を飛び出したのだろう。


残されたのは、重苦しい静けさだけ。

リビングには浩司が一人取り残され、

テレビのニュースがむなしく流れていた。


その音が、孤独をさらに際立たせていた。


翌朝。


目を覚まして部屋を出ると、食卓には何の支度もなかった。

恵理子の姿もなく、彼女が本当に出ていったのだと悟る。


浩司は慌ただしくスーツに袖を通し、玄関へ向かおうとしていた。

一瞬だけ視線が合う。


私も沙耶も、冷たい眼差しを返すだけで、何も言葉を交わさなかった。


浩司は何も言えず、靴音だけを残して家を出ていく。


崩壊していく家庭の中で、私と沙耶はただ寄り添った。


その寄り添いだけが、唯一の救いだった。


胸の奥に、あの夜の恐怖も孤独も、

沙耶の庇護も、すべてが重く残っている。


けれど——互いの存在がある限り、

私たちは少しずつでも前に進める。


そう思えた夜だった。

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