第34話 揺れる庇護

背後にあるのは、守るという覚悟だけだった。


その日、私は一人で学校から帰宅した。

沙耶は学校行事で遅くなるため、「先に三人で食べてて」と言い残して出かけていった。


夕食の食卓には、私と恵理子と浩司。


湯気を立てる味噌汁と焼き魚。

恵理子は努めて明るく話題を振り、浩司も相槌を打つ。


けれど私は、その輪に入りきれず、ただ箸を動かすだけだった。


「じゃあ、あとはお願いね。お店の準備があるから」


食後、恵理子は片づけもせず、慌ただしくコートを羽織って玄関を出ていく。


残されたのは、私と浩司だけ。


リビングからはテレビの音だけが響いていた。

私は台所に立ち、無言で食器を洗い始める。


冷たい水が指先を刺すようで、心まで強張っていく。


片づけを終えると、浩司はソファに腰を下ろし、

なんとなくテレビを眺めていた。


その横をすり抜け、私は一人でお風呂へ向かう。

冷えた廊下を踏みしめながら、心臓の高鳴りを抑える。


静かな家の中。

誰も気づかないことを祈りながら、湯船に身を沈めた。


湯上がり。


バスタオルを巻き、洗面台の前に立つ。

髪を拭き、化粧水の瓶を手に取った瞬間、

背後に気配を感じた。


振り返ると、浩司がそこにいた。


自室に戻ったと思い込んでいたのに——。

その距離が、私の背筋を震わせる。


「……結菜」


耳元で低く囁かれ、胸の奥が熱くなる。

湯気で湿った髪と肌が、羞恥と恐怖を一層強く感じさせた。


逃げたい。叫びたい。

——でも、声が出ない。


浩司の手が、抑えきれない欲情で私に触れようと伸びる。


「や、やめてください!」


必死に背を向け、バスタオルを握り直す。

逃げるように廊下へ駆け出した。


冷たい床が足の裏に触れ、震える体をさらに突き動かす。

心臓は張り裂けそうに高鳴っていた。


その瞬間、玄関のドアが開く。

沙耶が帰宅する音が響く。


「結菜!」


叫びと共に、沙耶が私の前に立ちはだかった。

小さな背中は震えていたが、一歩も退かない。


浩司の手が伸びるのを遮り、沙耶が叫ぶ。


「結菜に触らないで!」


その声は、私を縛っていた恐怖を断ち切る刃のように響いた。


浩司はわずかに体を引き、目を逸らす。

私はようやく肩の力を抜き、沙耶の隣に立った。


背後にあった危機の余韻がまだ胸を締めつける。

けれど、沙耶の庇護がそのすべてを包み込む。


湯気の残るバスタオルの温もりと、冷たい空気が混ざり合う。

羞恥と恐怖が、少しずつ和らいでいくのを感じた。


家の中の張り詰めた空気の中、

二人並んで立つことで、互いの存在の確かさを実感する。


その瞬間、心の奥で涙がにじんだ。


孤独も恐怖も、沙耶の庇護によって静かに溶けていく。


——この夜、私を守ったのは、姉ではなく、ひとりの女の子だった。

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