第33話 母との境界線

母とは呼べない。

その言葉が胸に線を引いた。


修学旅行から帰宅したある夕方。

外は薄暗く、冬の冷たい風が窓を吹きすさんでいた。


台所には煮込む鍋の湯気と味噌の匂いが漂い、

蛍光灯の白い光が恵理子のエプロン姿を照らす。


包丁を握る手がわずかに震えるのを、誰も知らない。


カタン、と玄関の扉が開く音がした。

靴を揃える小さな音のあと、制服姿の沙耶が廊下を渡ってくる。

結菜より先に、一人で帰宅したらしい。


家には二人きりだった。


「おかえり、沙耶」


なるべく穏やかに声をかける。


「ただいま」


返ってきた声は小さく、視線も合わさないまま自室へ向かおうとする。


恵理子は胸の奥でためらった。

呼び止めるべきか、それとも背中を見送るべきか。


しばらく沈黙のあと、口を開く。


「修学旅行は、どうだった?」


沙耶は少し戸惑ったように立ち止まり、短く答えた。


「別に」


そのそっけない声に、恵理子は胸の奥でひりつくような痛みを覚えた。


声をかけるほど距離が開き、

かけなければ心配が膨らむ——そんな葛藤が胸に広がる。


結局、包丁を置いて振り返った。


「沙耶……私ね、時々思うの。

無理に“母”を演じてるだけなんじゃないかって、不安になるの」


沙耶の足が止まる。

廊下に静かな沈黙が落ちた。


ゆっくり振り返った沙耶は、唇を動かしかけては閉じ、視線を床に落とす。


「……ごめんなさい。私、恵理子さんのこと……」


一度言葉を切り、数秒の沈黙。


やがて顔を上げた彼女の声は、驚くほど静かだった。


「母とは呼べないです」


突き放す鋭さはない。

けれど、迷いながらもはっきりと線を引く響きがあった。


恵理子の胸が強く痛む。


自分は結菜にとって母親である。

けれど沙耶にとって、自分は「父を奪った再婚相手」にすぎないのかもしれない。


その現実を思い知らされながらも、恵理子は小さく首を振り、かすかな笑みを作った。


「母って呼んでくれなくてもいい。名前でも、何でも。

——ただ、私は沙耶の味方でいたい。困ったときには、頼ってほしい」


その必死な言葉に、沙耶はようやく振り向いた。

けれど視線を合わせることはなく、小さく首を振る。


「……何かあったら声かけますから」


それだけを残し、彼女は自室へ歩いていった。


扉が閉まる音が、いつもより大きく響く。


鍋の火が小さく揺れていた。

包丁の置き場所に戻ろうとする手を止める。


自分が母になろうとすればするほど、

沙耶の瞳は遠ざかっていく——その事実が胸を締めつけた。


その夜、結菜と浩司が帰宅し、

いつものように四人で食卓を囲む。


けれど恵理子の胸には、

先ほどの短いやりとりが重く沈み続けていた。


——母とは呼べない。

その一言が、家族の中に見えない境界線を刻んでいた。

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