第30話 グラスに映る孤独
家庭の亀裂と、誰にも届かない孤独が胸に沈む夜。
夫婦喧嘩の夜、そしてその同じ夜に結菜と沙耶が禁断の一線を越えてから、
数日が経っていた。
日常は表面上、何事もなかったかのように過ぎていく。
だが、結菜と沙耶はより親密になり、姉妹という言葉では括れない距離感を漂わせ始めていた。
机を並べて勉強するときのさりげない視線。
食卓で交わす小さな笑み。
それはまだ誰にも気づかれていなかったが、
当人たちの心には、確かに芽吹いていた。
朝、四人で囲む食卓。
湯気を立てる味噌汁の香りと、焼き魚の焦げた匂い。
けれど会話はほとんどなく、
母——恵理子が浩司に声をかけるだけだった。
「今日も遅くなるの?」
「……ああ」
短いやりとりが途切れると、箸と器の音だけが響く。
その沈黙の中で、恵理子は気づいていた。
自分の顔に浮かぶ、かすかな不安の影に。
——どうすれば、この家族を繋ぎとめられるのか。
母自身が分からなくなっていた。
けれど声をかけられない。
胸の奥には、沙耶との秘密がある。
母と同じ景色を共有できない距離を、自分で作ってしまった気がした。
やがて浩司は会社へ。
結菜と沙耶は学校へ。
家に残されたのは、母ひとりだった。
夜。
スナックの店じまいを終えた恵理子は、街へ出た。
10月の風が肌にひんやりと触れ、襟を立てて歩かずにはいられない。
街路樹の葉は赤や黄色に色づき、秋の深まりを告げていた。
通りには家族連れやカップルの笑い声が響き、
自分だけ取り残されているように感じる。
「……こんなに一人でいるのは久しぶり」
吐く息は白くはならないが、
胸の奥まで染み込むように冷たかった。
足を重く運びながら、マンションの玄関を開ける。
出迎えたのは、寝静まった家の静けさだけ。
「ただいま」と声を出そうとしたが、
胸の奥で乾いた。
リビングの灯りを点け、ソファに腰を下ろす。
バッグから小瓶を取り出し、グラスに注ぐ。
氷がからんと鳴り、琥珀色の液体が揺れた。
ひと口、またひと口。
喉の奥を焼く熱さは、心の冷えを埋めてはくれない。
やがて涙が頬を伝う。
拭おうとしても追いつかず、
グラスを握ったまま、声が漏れた。
「……娘のために結婚したのに」
それは誰にも届かない。
夫にも、娘にも届くことのない独り言だった。
ソファの背にもたれ、視界が滲んでいく。
氷が溶け、水面に小さな光を散らす。
やがてそのまま目を閉じ、恵理子は浅い眠りに落ちていった。
——家族の中で、最も孤独なのは、彼女だった。
夫婦の亀裂も、娘たちの成長も、温かさも——
すべてを抱え込み、彼女だけが深く沈み込んでいる。
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