第28話 壁越しの怒り

父への怒りと嫉妬が胸を締めつけた。

言葉をぶつけずにはいられなかった。


学校からの帰り道、冷たい風が吹く。

落ち葉が歩道を転がっていた。


沙耶は足を少し速める。

玄関の扉を開けると、リビングには浩司がひとり座っていた。

仕事を早めに切り上げてきたらしい。


ソファに沈み込む姿は、いつもより疲れて見えた。

沙耶は声をかけるか迷う。

胸の奥に、不満や苛立ち、不快感が押し寄せる。


父と母の夜の営みを、壁越しに聞いてしまった記憶が重なる。

あの日以来、母が浩司に応じられなかったことを思い出した。


その光景に——沙耶は嫉妬を覚えていた。

父への不満が、心の奥で膨らんでいく。


もう黙ってはいられなかった。


「……お父さん、ちょっと話がある」


浩司は眉をひそめる。

「なんだ、改まって」


沙耶の声は震えていた。


「最近、全然私のことを見てくれないよね」

「前は二人で晩ご飯を食べたり、学校のことを聞いてくれたりしたのに」

「今は帰ってきても母さんと……いや、恵理子さんばかりで」

「私には何も話してくれない」


浩司はグラスを置き、面倒くさそうにため息をつく。

「そんなことはない。お前はもう高校生だ。いつまでも子ども扱いはできないだろう」


「違う!」


声が大きくなる。


「私だって子ども扱いなんて望んでない!」

「でも……私は七歳で母を失ってから、ずっとお父さんを支えてきた」

「料理も洗濯も、できる限り手伝って、“小さなお母さん”のつもりで頑張ってきたのに……」


涙が頬を伝う。

沙耶はもう隠そうとしなかった。


「それなのに、恵理子さんと結婚してからは、

私の存在なんてどうでもいいみたいに扱われて……」


声を震わせながら、怒りと悲しみをぶつける。

浩司の表情が険しくなる。


「そんな言い方をするな。俺は父親として——」


「父親?」


沙耶は声を震わせ、遮った。


「もう父親じゃない!」

「私にとって、あなたは……父親なんかじゃない!」


沈黙。

その言葉は、浩司の胸に突き刺さった。

同時に、家族の空気を鋭く裂く。


浩司は短く吐き捨てる。

「……勝手にしろ」


沙耶は涙を流しながら、その場に立ち尽くした。


幼い頃に必死に支えてきた日々も、

父と過ごした時間も、すべてが崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。


父と娘の間に、小さな亀裂が生まれる。

そこに触れることすら怖い。


——沙耶の怒りや悲しみの背景には、先日の浩司と恵理子の口論がある。

——そして、嫉妬心も絡んでいた。


父を独占していた“母”の不在に、

自分が見捨てられたような感覚が混ざっていた。


声をぶつけずにはいられなかった。


そのとき、結菜が一人でお風呂から出てきた。

廊下に立ち、呆然とした表情で沙耶を見つめる。


「……どうしたの?」


結菜の声は小さい。

けれど沙耶には届かない。


布団や部屋に籠る日々の結菜には、

二人の関係の亀裂の意味など、まだ理解できなかった。


結菜は息を呑み、ただ立ち尽くす沙耶を見つめる。

胸の奥に重い不安が広がった。


家族が変わってしまったことを、

無言のまま感じ取る。


父と娘の距離は、もう以前のようには戻らない。


秋の夜は静かに更けていく。

落ち葉の舞う風だけが、家の中に冷たい余韻を残していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る