第27話 壊れゆく夫婦の夜

怒声と沈黙が、夫婦という形を少しずつ引き裂いていった。


その夜、結菜と沙耶は自室に籠り、勉強を終えて布団に入っていた。

静まり返ったマンションに、リビングの低い灯りだけが残る。


玄関の扉が開き、母が帰宅する。

ソファには、ウィスキーのグラスを傾ける浩司の姿があった。

頬は赤く、視線はわずかに濁っている。


「おかえり」


母にかける声には優しさがなく、投げやりな苛立ちが混じっていた。


「……ただいま」


母はバッグを下ろし、軽く息をつく。

浩司は低く、硬い声で口を開いた。


「なあ……いつまで俺を避けるつもりだ」


「……」


「いい加減にしてくれよ。俺たちは夫婦だろう」


声が低くなるたび、テーブルの上のグラスが小さく音を立てる。

その音に、母の心臓が跳ねた。


——沙耶に言われた日から、私はこの夜をずっと避けていた。

——あの日の言葉が胸に突き刺さり、浩司の手や視線に応じることができなかった。


心の奥で拒絶しながら、夫の欲望と向き合わなければならない現実に、

胸が張り裂けそうになる。


「……沙耶に、言われたのよ」


母が震える声で口を開いた。


——『私の父を奪った女なんだから』


浩司の表情が硬くなり、苛立ちが露わになる。

言葉は荒くなるが、その怒りは母の態度への苛立ちであり、

子どもたちの心までは理解していなかった。


「気づいてないとでも思ったのか!」


浩司は声を荒げた。

自分の苛立ちや不満に、母が気づいていないことが許せなかった。


「夫婦のことに子どもを巻き込むな」


「子どもを巻き込んでるのはあなたでしょ!」


言葉がぶつかり合い、怒声が部屋に響く。

抑えていた感情が、一気にあふれ出した。


——母はただ、夫に応じられない自分を責めるしかなかった。


沙耶の言葉が頭をよぎる。

夫の苛立ちに応えることも、拒絶することもできない。

拒絶すれば浩司の怒りが増す。

応じれば、自分の意志は踏みにじられる。


どちらも選べず、身体と心は緊張で固まっていった。


「……もう、夫婦じゃない」


母は唇を震わせながら、そう言った。

その言葉は刃物のように、部屋の空気を裂いた。


浩司は目を見開き、しばらく言葉を失う。


布団の中の結菜は、その声を聞いて胸が締めつけられた。

扉越しでも、夫婦の苛立ちと声の鋭さは、胸に突き刺さるように届いてくる。


結菜は二人の間に漂う重苦しい空気を、布団の中から感じ取っていた。


「母と浩司の関係は、もう以前とは違う」


そう直感し、息を詰める。

下段で眠る沙耶も、きっと聞こえているだろう。

けれど、声は出さない。


布団の中の静けさが、逆に夫婦の亀裂の大きさを際立たせた。


結菜は息を吐き、体を丸める。

リビングの灯りがわずかに揺れた。


怒声と沈黙が繰り返される夜の残響だけが、

子どもたちの胸に重く刻まれていく。


——この夜、家の中の空気は確実に変わった。


夫婦に小さな亀裂が生まれたことを、

結菜と沙耶は確かに感じ取っていた。


母の心の奥には、夫に応じられない苦しみと、

罪悪感、そして“妻としての自分”が崩れていく焦燥が渦巻いていた。

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