第24話 優しい声は届かない

母の声は、胸の奥に届かず、私は孤独を噛みしめていた。


数日が経ったある夕方。

リビングの空気は静かで、窓から初秋の涼しい風が流れ込んでいた。


夏休みの後の残暑はまだ厳しい。

二学期が始まって間もない夜。

外の街路樹の葉が、風にそよぐ音だけを立てている。


夕食の皿を下げ終えたころ、沙耶は「宿題があるから」と言って早々に自室へ戻った。

リビングには、私と母だけが残される。


テレビはついているが、音は小さく、ほとんど聞こえない。

食器を洗う水音だけが、静かな部屋に響いていた。


浩司さんはまだ帰宅していない。

母は夜の仕事へ出かける前で、化粧直しをしたり、バッグの中を確認したりと慌ただしい。

それでも、時折こちらを気にするように視線を送ってくる。


そのたびに、居心地の悪さを感じた。


「結菜、今日は学校どうだった?」


母が声をかけてくる。

一日の終わりに子どもへ話しかける——そんな当たり前の会話のはずなのに、

その響きはどこかよそよそしく聞こえた。


「……別に」


短く答えて、目を合わせないようにする。

テーブルの上の箸を並べ替えると、母は少し黙り込み、それから笑みを作ろうとした。


けれど、その笑顔は引きつっていて、すぐにしぼんでしまう。

その表情が、胸に痛く突き刺さった。


本当はわかっている。

母は私を気にかけようとしている。

でも、あの夜のことが頭から離れない。


——浩司さんに肩を押さえられた、あの瞬間。


母に打ち明けられないまま、私は心の奥に小さな棘を抱えている。


母は私の異変に気づかず、ただいつも通りに動く。

そのことが、さらに居心地の悪さを増幅させた。


浩司さんと母は、本当に愛し合っているのだろうか。

それとも、娘に“普通の家”を与えるためだけの結婚なのだろうか。


もしそうなら、この家庭のすべてが偽物に思えてしまう。


「疲れてるのね……無理しなくていいのよ」


母は優しい声でそう言った。

けれど、その言葉はどうしても私の心には届かない。

むしろ遠ざかっていくように響いた。


私は喉の奥に何かを押し込むように黙り込む。

「うん」とも言えず、視線を落とす。


母はバッグを肩にかけ、ため息をひとつついた。

そして立ち上がる。


玄関に向かう足音。

呼び止めようと思えばできたはずだ。

でも、「行かないで」と言うことはできなかった。


声に出せないもどかしさと、

この家で母とどう接していいかわからない気持ちが、胸をぎゅっと締めつける。


扉が閉まる音がして、部屋には私ひとりだけが残された。


母娘の距離はまた少し遠ざかり、

胸の奥に重たい空洞だけが広がっていく。


私は息を吐き、ソファに体を沈めた。

テレビの画面は明るく点いている。

だが、そこから流れる光は私を照らしてはくれない。


ただ時間だけが、冷たい闇の中を進んでいく。


——優しい声も、今の私には届かない。


この家の中で、母と心からつながる場所は、

まだ見つからないままだった。

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