第23話 布団の中の涙
恐怖と罪悪感に胸が押し潰される夜。
二段ベッドの上段。
狭い天井と壁の間で、私は布団を頭までかぶり、声を殺して泣いていた。
胸の奥で、まださっきの恐怖が暴れている。
けれど、窓の外では夜風がさわさわと吹き、街灯に照らされた木々が静かに揺れていた。
風に混じる遠くの車の音や、夜空に瞬く星を見上げると、少しだけ息が整う。
一瞬、世界が布団の外でゆっくり動いていることを感じた。
背後から両肩を押さえられた力強さ。
喉が詰まり、息ができなくなった瞬間、浩司の表情が視界の端に映る。
その瞳は父親のものではなかった。
女として捕えようとするような、冷たく鋭い視線を湛えていた。
口元はわずかに歪み、抑えた息の熱が恐怖を増幅させるように迫ってくる。
心臓が跳ね、体が凍りついた。
——喉を押さえられ、逃げ場のない状況で、見られてしまった。
背中に伝わる冷たさは、力だけでなく、視線の圧で深く刺さる。
「やめ……て……」
声は震え、か細く掠れて、どこにも届かない。
あの瞬間、思い浮かんだのは、拒絶すれば失うかもしれない日常。
母と浩司が結婚してくれたおかげで、貧しい暮らしから抜け出せたこと。
屋根のある部屋で眠れること。
温かいご飯を食べられること。
そして、なにより——沙耶と一緒にいられること。
それを壊すことなんて、私にはできなかった。
拒絶することすら許されない自分が、惨めで悔しくて、涙はますます止まらなかった。
玄関の開く音で、はっと息を呑む。
母はまだ帰宅していない。
足音は廊下を進み、部屋の前で止まる。
ドアが開き、優しい声が落ちてきた。
「……結菜?」
返事をしようとしても、喉が閉じて動かない。
「どうしたの……返事してよ」
心配そうな声が重なる。
はしごを登る音がギシギシと響いた。
布団を握りしめ、身を固くする私の目の前に光が差し込む。
布団の隙間から覗き込む沙耶の顔。
視線が合った瞬間、顔を背けることすらできなかった。
「……泣いてるの?」
沙耶は静かにそう言い、上段の狭い空間で落ち着いた仕草でベッドの端に腰を下ろした。
まるで、私の隣だけが安全な場所だと教えてくれるみたいだった。
伸ばされた手が頬に触れ、濡れた涙を優しく拭っていく。
指先の温もりが、氷のように冷えていた心に染み込んでいく。
「もう大丈夫。何があったかは言わなくてもいいから、安心して」
その一言で、胸の奥が揺れた。
言わなくてもいい、と沙耶は言ってくれる。
でも私は、言えないことに罪悪感を覚える。
真実を隠したまま、この温もりにすがっている自分が、ずるいと思った。
「……沙耶、そばにいて」
か細い声で縋ると、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「私……守るつもりだったのに」
沙耶の声は震え、突き放す強さを含んでいた。
それでも、黙って頷き、私の手を握る。
その瞬間、心臓が少し落ち着いた。
沙耶の掌は温かく、握り返す力も優しい。
それだけで、呼吸が整っていくのを感じた。
涙はまだ止まらない。
けれど、さっきまでの震えは和らぎ、胸の奥の緊張も少しずつほぐれていく。
沙耶はただ隣に腰かけ、涙を拭い、手を握っていてくれた。
近くにいるのに、遠い——その距離感は切なく、苦しいのに、同時に安心でもあった。
私は彼女の袖を握りしめ、微かに笑みを作ろうとする。
しかしすぐに涙が溢れ、顔を覆った。
沙耶は何も言わず、ただ見つめてくれていた。
夜は静かに更けていく。
私たちは言葉もなく、手の温もりにすがりながら、沈黙の中に取り残されていた。
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