第22話 背後からの視線

父の視線が、私を捕らえようとしていた。


新学期が始まり、結菜と沙耶はそれぞれ学校へ向かった。

夏休みの喧騒が去り、平日の空気がゆっくり戻ってくる。


帰宅すると、珍しく浩司が早く帰っていた。

母は夜の仕事へ出かけ、沙耶は生徒会の会議で文化祭の準備に追われている。


マンションの中に残っているのは、私と浩司だけだった。


夕食は、母が作り置いていった煮物と味噌汁。

食卓を挟んで座ると、浩司は普段よりもよく話しかけてきた。


「転校して、もう半年くらいか」


「……はい」


「学校はどうだ。沙耶と一緒なら安心だろ」


「……まあ、なんとか」


たわいない会話のはずなのに、胸がざわつく。

その視線が、父親としてのものではなく、もっと別のものに思えてしまった。


——私は、この家に居場所を与えてもらった。


母と浩司が結婚してくれたおかげで、貧しい暮らしから抜け出せた。

ここで拒絶すれば、この家から追い出されてしまうかもしれない。


沙耶と離れ離れになる——それだけは絶対に嫌だった。


だから私は、笑顔も作れず、曖昧に相槌を打つしかなかった。


夕食を片付けるため、私は台所に向かった。

音を立てないように皿を洗いながら、心臓が早鐘のように打つ。


リビングには浩司だけが残り、微かに私の動きを見ている気配があった。


背後から、低く息混じりの声が落ちた。


「……結菜」


振り返った瞬間、距離が近すぎて息が詰まる。


「……家族なのに」


喉の奥で声が凍りつき、誰にも届かないまま消えた。


肩に落ちた大きな手。

全身が固まり、背中に触れる冷たさが鋭く伝わる。


「やめ……て……」


声は震え、か細く掠れていた。

目の前に迫る浩司の顔。


逃げたいのに、逃げられない。

拒絶すれば、すべてを失うかもしれない——恐怖で涙がにじむ。


浩司の目が、その涙を捉えた。

次の瞬間、表情が揺らぎ、押さえていた手がゆっくり離れる。


「……すまん」


低く搾り出すような声だけが残され、浩司は立ち去り、自室へ戻った。


私は台所で呆然と立ち尽くした。

やがてダイニングの椅子に腰を下ろし、震える手で口を押さえる。


声にならない嗚咽が喉の奥に詰まり、呼吸が苦しかった。


リビングの空気は、静かすぎるほど静かで、夏休みの余韻を微かに残している。


その静寂の中で、胸には凍りついたままの恐怖と、

家族に守られ続けてきたはずの不安が重くのしかかっていた。


——安心できる場所は、この家の中にもう、どこにも残されていない。

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