第21話 静かに崩れる日常

家の中には、誰も口を開かない沈黙だけが漂っていた。


夏休みが終わろうとしている、静かな朝。

蝉の声は遠く、夜風にひんやりとした空気が混ざる。

リビングにはまだ静けさが支配していた。


朝日が柔らかく差し込み、テーブルの湯気を金色に染めている。

四人で囲む朝食の席。

左に浩司、右に私、向かいに結菜と沙耶。


箸の音、コップの縁に触れる指先の微かな音だけが、静かな空気に混ざる。


浩司は無言で箸を置き、立ち上がった。

コーヒーカップを軽く置き、靴を履いて玄関へ向かう。

その背中を見送りながら、胸の奥に冷たい孤独が広がるのを感じた。


結菜と沙耶はまだ食卓に残っている。

小さな声で互いに話しながら、食器を片付ける手元だけが動いていた。

その声も遠く、耳に届くのは自分の呼吸だけ。


二人が自室へ向かう足音が廊下に響き、やがて消える。

リビングに残された私は、静寂の中でひとり座っていた。


—一人でいる。


椅子にもたれ、指先でコップの縁をなぞる。

深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


視線の先に広がる朝の光も、笑顔も、何一つ慰めにはならなかった。

孤独だけが、確かにここにある。


夏休みの間、浩司に抱き寄せられるたび、胸の奥で罪悪感がせり上がった。

あのとき沙耶が放った言葉——

「私の父を奪った女なんだから」——が、今も胸に突き刺さっている。


そのせいで、体は自然に拒み、浩司の温もりに触れるたび、娘に責められたような感覚が蘇るのだ。


窓の外を見る。

柔らかな光がリビングを照らす。

その光は温かいはずなのに、心には届かない。


指先でコップの縁をなぞると、氷のわずかな音が響く。

冷たい空気が肌に触れ、胸をさらに締めつけた。


家族の間に漂う微かなひび割れを、耳で聞いているようだった。

時計の針がゆっくりと進む。


結菜と沙耶の部屋の気配は遠く、リビングには私だけ。

家族という形は、静かに、しかし確実に崩れていく。


小さく息を吐き、椅子にもたれかかる。

背中に残るエプロンの布がひんやりと冷たかった。


胸の奥の虚しさは増し、目の前の光や音では癒されない。

過ぎ去った夏の思い出も、娘たちの笑顔も、もう私の心を満たさない。


ただ、孤独が深く沈み込むだけだった。


風がカーテンを揺らすたび、胸の奥の冷たさがわずかに揺れる。

夏休みが終わろうとしている静かな朝のように、

私たち夫婦の関係も、静かに変わっていくのだと悟った。


両手を膝の上に置き、沈黙の中で時間が過ぎるのを待つ。

誰もいないリビング。


光も、音も、存在も、孤独に変わる。

胸に残るのは、確かな孤独だけだった。

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