第12話 暗闇でこぼれた弱音
暗闇で漏らした弱音が、二人を少し近づけた。
暗闇の中で、上段と下段の布団が小さく軋んだ。
「……ねえ、沙耶」
「ん?」
「今日さ、体育で転んだ子がいて。思いっきりズボン破れてさ」
思い出して吹き出すと、下からも小さな笑い声が返ってきた。
「そんなの、クラスの笑い者だね」
「うん。先生まで笑ってた」
二人でしばらくくすくす笑い合った。
昼間は互いに口数が少ないのに、電気を落とした暗闇の中では、不思議と声が軽くなる。
布団の中で肩を揺らしながら笑っている自分が、まるで子どもに戻ったようで、心が少しだけ温まった。
やがて笑いが収まると、部屋には再び静けさが広がった。
窓の外からは遠くの公園で鳴くセミの声。
夜気は蒸し暑さを含み、カーテンの隙間から入る風もぬるい。
私は背中を丸め、小さく吐息をこぼした。
「……でもさ、やっぱり疲れるよ。学校」
闇の下から、間を置いて声が返ってきた。
「分かる。私も、優等生ぶるの、正直しんどい」
思わず目を瞬いた。
あの完璧に見える沙耶が、そんな弱さを見せるなんて。
驚きで胸が揺れて、つい「そうなんだ」と声が漏れた。
沙耶の声色は昼間とは違い、素直で、年相応の少女に聞こえた。
その響きに安心したのか、私は胸の奥にしまいこんでいたことを口にしてしまった。
「母さん……また夜の仕事に行くようになった」
暗闇が、少しだけ重くなる。
「……スナック?」
「そう。浩司さんの稼ぎだけじゃ足りないのも分かってるし、私のために働いてるのも知ってる。
でも……結婚する前から、ずっとそうだった」
「前から?」
「うん。一緒にご飯を食べた記憶なんて、ほとんどないんだ。
いつもコンビニの総菜か、インスタントばっかりで」
「……そうなんだ」
「どこかに連れて行ってもらったこともなかった」
言葉にすると、胸の奥に小さな棘がまた刺さる。
思い出すたびに、ひりひりと痛んだ。
下から、ほんの少し震えを含んだ声が返ってきた。
「……寂しかったでしょ」
「うん。だから結婚しても、あんまり変わらないんじゃないかって思う。
私にとって、母さんって……何なんだろう」
答えのない問いが、暗闇に溶けていく。
時計の秒針の音と、網戸越しのセミの声が重なり合い、胸の奥の空白を突きつけてきた。
その沈黙を破ったのは、下から届いた小さな声だった。
「……寂しいときは」
一度、言葉が途切れる。息を飲む気配。
それから、少しだけ力を込めるように続いた。
「私を頼っていいから」
その声には、ほんの少しのためらいが滲んでいた。
優等生でいようとする彼女の仮面が、暗闇の中では外れてしまうのだと気づいた。
短い言葉。けれど、そこに宿る躊躇と決意が、闇の中で鮮やかに伝わってきた。
私は布団の中で、ぎゅっと胸を抱きしめた。
「……ありがとう」
声が震えた。
その直後、下の布団が小さく軋む音がした。
まるで、私の気持ちを確かに受け止めてくれた証のように。
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