第11話 母は女として、娘は孤独として

母は母である前に、一人の女だった。


深夜のリビングに、ぼんやりと灯りが漏れていた。

トイレに起きた私は、眠気が戻らず、廊下を覗いた。


ソファには母が座り、手元のグラスをじっと見つめている。

氷はほとんど溶け、時おり小さな音を立てていた。

中身は酒ではなく、水か薄いお茶のように見える。


「……眠れないの?」

声をかけると、母の肩が小さく跳ねた。


「うん、そう。酔ってるわけじゃないの。ただ……眠れなくて」

笑おうとした口元はぎこちなく、頬の筋肉はこわばったまま。

そこにあったのは母らしい温もりと、一人の女の弱さが入り混じった表情だった。

私はソファの端に腰を下ろす。

近いはずの距離なのに、透明な壁が立ちはだかっているようで息苦しい。


「……学校は、どう?」

柔らかい問いかけ。

けれど、その奥に探るような不安がにじんでいる。


「普通。……別に」

昼間の教室と同じように、浅い言葉しか出てこなかった。

母の視線が泳ぎ、氷がまた小さく鳴った。

グラスを持つ指先がわずかに震える。

母は氷を舌で転がすように飲み込んだ。

その仕草は、娘に見せるためではなく、自分を紛らわせるためのように見えた。


「……結婚して、どう?」

気づけば、言葉が口をついて出ていた。

母の瞳が一瞬だけ揺れる。


「どうって……?」

時間を稼ぐような笑みは、すぐに引きつった。


「浩司さんと一緒になって、母さんは……幸せ?」

問いが空気を切り裂き、テーブルの上に落ちて跳ね返る。

母はグラスを握り直し、視線を落とした。

唇が動くが、言葉にならない。


「……そうね。ちゃんとした人だし、優しいし」

ようやく出てきた答えは、借り物の台詞のように響いた。

沈黙が続き、母の言葉の薄さを際立たせる。


「私のためだって言ったけど……母さん自身は、本当にそれでいいの?」

詰問ではなかった。けれど、その一言に母の眉が影を落とした。


「……わからない。うまく言えないわ」

しどろもどろの声。手の甲が汗で濡れ、灯りに反射して光っている。


母は母である前に、迷いの中にいるひとりの女——。

廊下の奥で、沙耶の部屋のドアがわずかに軋んだ。


……もしかして、今の会話を聞かれていたのかもしれない。

胸の奥に冷たいざわめきが走った。

その事実が、胸に重く突き刺さった。

氷はすべて溶け、水音も消えていた。


会話は途切れ、時計の秒針だけが部屋に残る。

私は立ち上がり、「おやすみ」と小さく告げて部屋へ戻った。


布団に潜り込んでも、母の曖昧な笑みと答えられなかった沈黙が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る