第13話 父になれない眼差し

父親になりきれない眼差しが、私を刺した。


朝、沙耶と一緒に登校していた。

けれど途中で忘れ物に気づき、慌てて家に引き返す。

時計の針は無情に進み、授業開始までの時間がどんどん削れていく。


「……間に合わないかも」

息を切らして玄関に飛び込んだとき、廊下から声がかかった。


「学校、送ろうか」

振り向くと、浩司さんがシャツの袖をまくり、革の鞄を片手に立っていた。

出勤前の支度を整えた姿。


正直、戸惑った。

けれど、ここで断れば確実に遅刻する。


「……お願いします」

助かった——その気持ちは本物だった。

だが同時に、胸の奥にじわりと警戒心が広がる。


車内には、カーステレオの小さな音だけ。

浩司さんはハンドルを握り、前を見つめたまま言葉がない。

助手席の私は、背筋を硬くしたまま動けなかった。


母が再婚してから、浩司さんと二人きりになるのは初めて。

ドアを閉めた瞬間、思った以上に距離が近いと気づいた。

横を向けば、すぐそこに大人の男。

車という小さな箱の中、逃げ場はどこにもなかった。


窓の外では、夏の日差しを浴びて走る自転車の中学生。

信号待ちの親子連れ。

街路樹の濃い緑と、途切れないセミの声。


——当たり前の夏の光景が、車内の静けさをいっそう息苦しくさせていた。

私はこれまで、学校の先生以外の大人の男性と二人きりになったことなどほとんどない。

その記憶の薄さが、余計に胸騒ぎを強くした。


浩司さんを「お父さん」と呼べる気はまだしない。

私にとっては、ただの大人の男性。

しかも母と一緒になった人。

だからこそ、視線がかすかに触れるだけで、体の奥に説明できないざわめきが広がった。


感謝と警戒と、不安が入り混じり、呼吸まで浅くなる。


「昨日はよく眠れたか?」

ようやくかけられた言葉は、世間話のように軽い。


「……はい」

短く答えると、再び沈黙が落ちた。


赤信号で車が止まる。

フロントガラス越しに差し込む朝日が、車内を白々と照らす。

エアコンの風は弱く、汗ばむ手のひらが膝の上でじっとり湿っていく。

浩司さんが小さく咳払いをし、また黙る。


その一瞬、視線が私に触れた。

ほんの刹那。

それなのに、背筋に冷たいものが走った。

父親なら当然の眼差し。

——そう思いたかった。


だが、そうではない気配を敏感に感じ取ってしまった。

学校までの数十分が、途方もなく長く思えた。

校門が見えたとき、ようやく胸の奥の緊張がほどける。


「ありがとうございました」

車を降りるとき、小さく頭を下げた。

その瞬間に返ってきた浩司さんの視線——


それは「娘を見る目」ではなかった。

私はその違和感を抱えたまま、校舎へ足を踏み入れた。

放課後、机に向かう私を見て、沙耶がふと口にした。


「……送ってもらったの?」


その一言に潜む不安の色を、私は見逃さなかった。

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