第5話 二段ベッドと並んだ机

机を並べたとき、心の距離が少しだけ縮まった。


引っ越してきて数日。

私の寝床は二段ベッドの上段、沙耶は下段。

六畳の部屋に二つの机が並ぶ。

そのうち一つは、私のために新しく置かれたものだった。


——けれど、この部屋はもともと沙耶ひとりの空間だ。

そこに私が押しかけるように入り込んだ。


狭い市営住宅で暮らしていた頃を思えば、

この部屋の広さに不満なんてない。

むしろ、自分専用の机やベッドがあるだけで十分すぎる。

だからこそ、余計に思ってしまう。

沙耶にとって私は、迷惑な存在なのではないか、と。


夜。机に向かって教科書を開くが、文字はぼやけ、ページを追う目だけが動いていた。

手が微かに震え、鉛筆を持つ指先に力が入らない。

その瞬間、隣の沙耶が鉛筆を走らせる音が微かに響く。

目が合うと、わずかに眉が跳ねた。

一瞬の視線で、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

姿勢は正しく、手元の動きも無駄がない。


私は思い切って、声をかけてみた。


「……あの、この問題って、どうやるの?」

自分でもわかっている。

沙耶は一瞬だけ顔を上げ、私を見た。


その瞳には警戒と戸惑いが混じっているように見えて、胸がきゅっと縮む。

けれど次の瞬間、小さく頷いて、鉛筆で式を書きながら説明してくれた。


「ここ、公式を使えば簡単に解けるよ」

「……ありがとう」

その声は、昼間の教室で見せていた“優等生の沙耶”とは少し違っていた。

穏やかで、抑揚は少ないけれど、冷たさはなかった。

私は安堵し、机に落ちた自分の影が少しだけ軽くなるのを感じた。


リビングの方からは、テレビの音が微かに漏れてくる。

母は一人でチャンネルを回しながら、ソファに腰掛けているのだろう。

そのとき、玄関のドアを開ける音がした。

すぐに母の声で「おかえり」と聞こえる。

浩司さんが帰宅したのだと悟った。

仕事はいつも遅いらしい。


同じ屋根の下にいるはずなのに、

それぞれが別々の場所にいて、別々の時間を生きているようだった。


やがて時計が夜十時を告げる。

私たちは教科書を閉じ、電気を消してそれぞれのベッドに潜り込んだ。

暗闇の中で、私は思い切って小さく声をかける。


「……おやすみ」

「おやすみ」

一言だけのやり取り。


でもその響きは、沈黙の夜に落ちる小さな灯のように思えた。

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