宇宙人の救援要請
他所ノ鶏
宇宙人の救援要請
赤い流れ星がひとつ、夜空を裂いたのは六月の末のことだった。
南ドイツ、シュヴァルツヴァルトの湖畔で、老人が一人、釣り糸を垂れていた。
彼は後に、あの光を見た瞬間、旧約聖書の黙示録を誰かに読み聞かせられたような気がした、と語った。
だが誰も耳を貸さなかった。
彼は村の狂人として知られていたからだ。
翌朝、湖面を押し分けるように、光沢を帯びた金属の塊が浮かび上がった。
船でも、飛行機でも、気球でもない。
冷たく、沈黙を湛えた、用途不明の存在。
それをUFOと呼ぶには、あまりに悲しげだった。
やがて、そこから一人の影が降り立った。
人の形をしていながら、人ではない何か。
彼は言った。
「私の星が、死にかけています。……あなたがたの助けが必要なのです」
その言葉を聞きながら、人々は心の中でそっと耳を塞いだ。
政治家は言った。
「我々には国民を守る義務がある」
哲学者は言った。
「倫理は地球圏における相対的概念だ」
農夫は言った。
「そいつは麦を実らせるのか?」
そして大半の人間は、何も言わなかった。
ただ、目を逸らした。
◇
彼の姿は、見る者によって異なっていた。
ある者には銀色の皮膚を持つ少年に見え、またある者には老いた修道士のようだったという。
朝露のように儚く、蝋燭の炎のように揺れ、光と影のあいだを行き来していた。
人間の「見る」という行為そのものが、試されているかのようだった。
「私はカルトゥーラ・ヴェ・サレア」
名は口ではなく、心に直接響いた。
深海の底から鳴る鐘のような声だった。
彼の言葉の意味は、誰にでも理解できた。
だが、その言葉が生まれた理由を、受け止められる者はいなかった。
「私たちの星は、呼吸ができなくなりつつあります。
大気は熱に包まれ、海は空へ逃げ、森は名を失った。
それでも、まだ生き延びる可能性はある。
技術ではなく、記憶と希望が残っている限りは。
どうか力を貸してほしい。知識の一部でも、祈りの断片でも」
村の司祭が、重たいまぶたを上げて問うた。
「あなたの神は、あなたの星を見捨てたのですか」
カルトゥーラはしばらく黙っていた。
それから、胸の奥に埋めたような声で言った。
「私たちの文明には、神という概念がありません。
……それが、滅びの始まりだったのかもしれません」
国は動かなかった。
正確には、動けなかった。
どの国も自国の不安で手一杯だった。
戦争の匂いが東から吹き、経済の歪みが西で膨らんでいた。
宇宙に差し伸べる手を持つ前に、地上の皿を抱えきれずにいた。
新聞は沈黙した。
教科書には、何も記されなかった。
地下の小さな印刷所で刷られた無名の冊子だけが、彼の存在をかろうじて留めた。
『青き祈りの書』
発行部数、十四部。
裏表紙の隅に、こうだけ印刷されていた。
《私たちは、彼を知っていた》
◇
やがて不穏な噂が広がり始めた。
「偵察兵だ」
「侵略の前触れだ」
「疫病を持ち込んだ」
恐怖は、理由を必要としなかった。
壁には落書きが増えた。
《星に帰れ》
《地球は地球人のものだ》
こうして人類は、「来訪者の苦しみ」ではなく、
「自分たちの不安」を選んだ。
フランツ・ケーニヒという警官がいた。
彼は何度か、カルトゥーラに食料を届けていた。
パンと、温めたスープ。
カルトゥーラは食べる前、必ず一瞬だけ目を閉じた。
それが祈りなのか、記憶なのか、フランツには分からなかった。
「……本当に、もう駄目なのか」
カルトゥーラは首を横に振った。
「まだ、間に合います。
あなたたちの記憶が、私たちの中に残っている限りは」
フランツは煙草に火をつけた。
「記憶なんて曖昧だ。
人間は昨日信じてたことすら忘れる」
カルトゥーラは答えなかった。
その目は、星のように遠かった。
その夜、暴動が起きた。
群衆は松明を持ち、金属を打ち鳴らし、古い教会へ向かった。
砕けるステンドグラス。燃える祭壇。
混乱の中で、カルトゥーラは姿を消した。
逃げたのではなかった。
彼は夜明けとともに、船へ向かっていた。
地球を、諦めるために。
◇
港には霧が降りていた。
世界は白く、音を失っていた。
フランツだけが、遠くから船を見ていた。
——銃声が響いた。
ランプがひとつ、消えた。
地面に、血とも光ともつかぬ赤が広がった。
カルトゥーラは倒れていた。
その顔は、ひどく人間に近づいていた。
まるで、人間だった過去を思い出してしまったかのように。
翌日の新聞の片隅には、こうあった。
「奇怪な機械と不審な男、夜間に射殺。
犯人不明。船は確認されず」
泣く者も、疑う者もいなかった。
数日後、彼は「最初から存在しなかったもの」になった。
◇
地球は回り続けた。
朝は白み、子どもは学校へ行き、料理番組が流れ、議会は税率を論じた。
ただ一人、フランツだけが空を見上げていた。
「……息子だったら、撃たなかったんだろうな」
十年後、磁場に異常が記録された。
氷は早く崩れ、季節は歪み始めた。
誰も因果を結ばなかった。
だが、それは因果だった。
カルトゥーラの星は、地球の未来だった。
滅びを避けるため、彼は過去に送られた。
未来を託すために。
人類は、その未来を撃った。
地球は、いつか滅ぶ。
それは罰でも運命でもない。
ただ、一つの問いに答えなかった結果だ。
「他者の痛みを知ったとき、あなたは、どうするのか」
その問いだけが、今も地中に残っている。
きっといつか、地球を突き破る。
だがそのとき、答える者は、もういないかもしれない。
何しろ私たちは、
未来から来た自分自身を、殺してしまったのだから。
宇宙人の救援要請 他所ノ鶏 @4sono_2wa10ri
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