彩音との飲み@居酒屋
彩音との飲みの日、電車が遅れてしまい、約束の時間に遅れそうだった。彰が店に向かっている間に〈先に店入ってる〉と連絡があった。
息せき切って道玄坂にある大衆居酒屋に入ると、入口からほど近い二人席に彼女は着いていた。老舗の店は昭和の雰囲気が漂っていた。平日でも幅広い年齢層の客で店内は混んでいた。
彰は彩音と向き合って話すのが初めてであることに気づいた。そこには何か勝負事のような雰囲気があった。実際、少なくとも彰にとっては、そう言っても過言ではなかった。
生ビールで乾杯の後、DJが大きなウェイトを占めるようになってからの生活について訊いた。彰は仕事との両立を懸念していた。彼女はフルタイム勤務の編集者で、部下もいるということだったが、平日週末問わず週二もしくは週三でオープンラストでパーティにいるような生活で、果たして仕事が務まるのか、と疑問だった。
「まあ、キツいこともあるけどね。でも、在宅でもできるし、優秀な部下にも恵まれてるから何とかなってる」
彩音は平然と言ってのけた。職場まで近いのと、在宅勤務が一般化していることを踏まえると、自分がそうだったように週五で電車で一時間以上かけて通勤するようなイメージとは大幅に異なっていると考えられた。
「そうなんだ。それならいいんだけど」
「わたし、『仕事してないでしょ』とよく言われるんだけど、そんなことないんだよ」
実際のところ、仕事はできそうな雰囲気だった。長身で美人というだけでそういう風に見えてくる。彰は自分がそんな優秀で美人でDJという特技もある女性にアプローチしていることがますます無謀なことに思えてきた。とはいえ、もうテーブルに着いているからには弱気にはなれない。
「君のような才色兼備な女性と飲めて嬉しいよ」
「そんなんじゃないよ。わたし、本気でDJやろうと思ってるの。それって、なかなかないことだと思うの。人生で本気になるってことが」
彩音はそう言うと、彰を見据えた。
「確かに。……大学受験なんかはそうだよな」
そう言ったものの、それは好きなことに本気になることとはまた別の話であることに気づいた。
「DJに本気なんてすばらしいことだよ。応援するよ」
「ありがとう」
「あっ、俺は君に本気だよ」
彩音は下を向いて、肩を震わせて笑った。そのリアクションは、喜んでいるのかどうかわからなかったが、何にしても受けたのは嬉しかった。
お通しのマカロニサラダで瓶ビールを空けた頃、ポテトサラダ、牛すじ煮込み、あん肝ポン酢が来た。瓶ビールは二本目に入った。
彰は昔の話をした。二〇代の頃、長いこと学生を続けて、外国の文学にかぶれていたこと、映画や服に夢中になっていたこと、クラブには九〇年代後半に初めて行ったこと。もう服への情熱はほぼなくなっていたが、ほかのことに対しては相変わらず熱心だった。それを踏まえると、人は変わらないと思えた。
「そうなんだ。何かわかる気がする。あんまり働いている感じじゃないから」
「それは自分でも自覚してるよ。昔からスーツ着て会社で働ける気がしなかった。実際にしてないに等しいね」
「そうなんだ。でも、翻訳できるならいいんじゃない。会社員だけが生きる道じゃないよ」
「うん。そうだね。そうだ。まあ、翻訳もこの先どうなるかわからないけど、昭和の頃のように仕事が人生みたいな生き方はしたくないって思ってる」
「男性は仕事、女性は家庭と子育てみたいな時代だったよね。わたしも昭和には戻りたくないわ」
彩音はそう言って、笑った。
(かわいい)
あん肝を食す彼女の口元に情欲がそそられた。好きな女性がテーブルを挟んで向こう側に座っていることがもどかしかった。
彰はクラブのフロアで踊りながら、彩音の指に触れたときの感触を思い出していた。そのとき途方もない快感が指先に走った。そんな快感の源泉を眼の前にして、触らないでいることは機会損失でしかなかった。
「そう言えば、俺たち出会ってから半年くらいになるね」
「そんなになるんだ。早いね」
「出会った夜からずっと君に夢中だよ」
「嘘だ」
「ほんとだよ。あれからずっと祭りが続いているようなもんだよ。毎晩毎晩、寝る前に君のこと思ってる。だから、俺のベッドで寝たら、俺の愛を感じてもらえるんじゃないかな」
彰は温めていたセンテンスを口にした。
「ハハハ、思わなくていいよ」
「眠りって小さな死だと思うんだよね。男が死ぬ前に考えることは女性のことだと思うんだ。だから、君のことを考えちゃうんだ」
「そんなの、思い込みじゃない?」
「どうかな。あやちゃんは寝る前に何を考える?」
「そんなの、その日によるよ。まあ、だいたい本読んで眠くなったら寝る感じかな。少なくとも男性のことではないよ」
「そうなんだ。パートナーの人とは愛し合ってるの?」
これもまた温めていた質問だった。
「……そういう話はしたくない」
彩音はそう言ってドリンクを口に運んだ。
「俺なら淋しい思いはさせないよ」
「えっ? わたし、淋しいなんて言った? 勝手に憐れむの止めてくれる?」
「憐れんでなんてないよ。そんなわけないじゃん。むしろ、俺のほうこそ……」
彰はそこで言い淀んだ。彩音はトイレに立った。彼女は飲むと食べない人だった。ほとんど彰が一人で食べていたが、美味しい料理を共有できないのは寂しかった。彼は舞茸の天ぷらとだし巻き玉子に加え、相手の分と合わせてハイボールを二杯注文した。
彩音が戻ると、渋谷の街の話になった。渋谷はここ数年、開発が加速していた。次々と新しい巨大なビルが建ち、宮下公園も商業開発され、一昔前の渋谷の風景がどんどん失われていた。彼女はそうした変化を嘆いて言った。
「桜丘町なんてまったく変わっちゃって悲しい。ゴミゴミした街並みこそが渋谷らしさなのに。せめて神泉付近は変わらないでほしい」
街の猥雑さこそが魅力であるという意見に彰は同意した。キレイなビル、キレイな街にはどこか息苦しさがあった。そうした商業開発に抵抗しているのは、高円寺くらいだろうか。それでも高円寺にしてもずっと今のままというわけには行かないだろう。遅かれ早かれ開発されるのではないだろうか。結局、街に限って言えば、明治・大正時代の風景はもう残っていないのであり、時代とともに移り変わるのは必然であると考えられた。昔の街を知っている人は、昔の風景に愛着を持っているが、新しい人はそうではない。
街の話の次は、共通の知り合いで、DJでオーガナイザーのダーザインを話題に出した。最近、彩音は彼のパーティーによく出演するようになっていた。
ダーザインとは達也を介して、数年前に知り合ったのだった。彩音と出会ったのはダーザインのパーティーだったので、彼に感謝していたが、彼については謎が多かった。ダーザインと深い会話を持ったことはなかった。もっとも彼に限ったことではないが。結局、彰に彩音を除いて友達と呼べるDJはいなかった。
彰はダーザインについて知っていること、すなわち一人暮らしで三茶住みであること、オーガナイザー業以外に中目黒の飲食店でバイトしていることを話した。その上で、謎が多いとも付け加えた。
「そうなんだ。やっぱりオーガナイザーでも専業は難しいんだね」
「みたいだね。あやちゃんは何かビジョンあるの? DJという文脈で」
「わたしもパーティーを主催したいとは思ってる。まあ、まだ先の話だけど、ある程度のDJスキルがないと無理だと思うから」
「そういうもんか。まあ、わかる気がする。ともあれ、そんな風に目標を持って何かに打ち込めるというのはすごいことだよ。応援してる」
「彰くんも小説書いてるんでしょ?」
「うん、書いてる。君がヒロインという設定で」
「ほんとに書いてるんだ」
彩音は目を丸くした。
「うん、自分を投影した主人公がヒロインに一目惚れする話だよ」
「へえ~、それはおもしろそうだけど、なんか読むの怖いな」
「ぼくも君に読まれるの怖いよ。でも、完成させたいんだ。だから君のことをもっと知りたい。俺、まだあまり君のこと知らないから。俺のことも話してないけど。だから、まずは自分のことを話すよ。それが礼儀ってものだから」
「……わかった」
彩音は釈然としない様子だったがそう言った。
「何から話そうか。そうだな……。俺、夏に骨折したじゃない。で、その後手術受けたけど、そのときに緊急連絡先が必要になるんだ。その連絡先に選んだのが、昔同居してた年上の女性なんだ」
彩音は何もリアクションしないで聞いていた。彰は泰子との関係について話した。二〇代後半に職場で知り合った。一七歳上という年齢の違いについては当初は気にしていたが、今はそうではない。泰子との同居を解消したきっかけは、ほかに好きな女性ができたことだった。それでもそれが主たる原因ではないと思っていた。主たる原因は、住所の利便性だったが、それは抽象的に言うと価値観の違いと言えた。自分はどこまでも合理性を追及したが、彼女はそうではなかった。そもそも通勤にも生活にも不便な場所にマンションを購入したことが理解不能だった。そうした不合理性こそが容認できなかった。ただそれだけのことだと、彼は総括していた。そうだとすれば、それは倫理的に許せないようなことではない。そうすると、結局、相手を深く愛していなかったと言えるかもしれない。それについては、何とも言えなかった。まず愛していても、それによりすべてが許せると言い切ることができるとは思えなかった。
「その女性は俺にとって妻みたいな存在だと思っていたんだけど、実はそうではないってことに最近気づいたんだ」
彰はそう言って、泰子が自分の長期滞在を許可しなかったことを話した。
「あたり前でしょ。ほかの女性にアプローチしてる男にそんなこと許可する義理なんてないよ」
彰は痛いところを突かれて、顔色をなくした。
「まあとにかく、俺は自分のこと話したぞ。今度は君のこと話してほしい」
彩音は「しょうがないなぁ」と呟いて、ドリンクを一口すすると話し始めた。
「……夫とは二〇代の終わり頃、結婚した。出会いは……、もう話したよね。結婚してから数年はうまく行ってたけど、子供というか今で言う妊活を巡る意見の違いで関係が冷めた。わたしは妊活してまで子供欲しいと思ってなかったから。それが三〇半ばの頃か。わたしは子供できない体質のようなのよね。お酒好きだからなのかもしれないけど。もう三〇半ばって言ったら諦める年齢だと思う。でも、離婚はしない。最終的に夫も子なしの人生を受け入れたから。それにマンションも買ったし」
マンションを購入済みであることは彰に重くのしかかった。それは彰には到底叶わない経済力を仄めかすものであり、同時にローンという債務で二人を縛るものだったから。とはいえ、それは想定済みだった。彰は彩音のパートナーになれるとは考えてなかった。おそらくはどこまでも友達でしかなかいだろうが、それでも、今はまだ三〇パーセントかそこらしか体験していない彩音というテーマパークをすみずみまでアンロックしたいと考えていた。その鍵は何であるか、彼はずっとそれだけを考えていた。
「じゃあ、パートナーの人とはどういう関係なの?」
「同居人というのかな。お互いに仕事やDJで外出している時間も多いし、自分の部屋もあるし、あんまり顔合わせない」
彩音はそう言うと、だし巻き卵を口に運んだ。いつの間にか店内は満席になっていた。たった今、入店した若いカップルは追い返されていた。店内は居酒屋特有の活気に満ちている。カウンターで一人で飲んでいるのは彰と同世代の中年男性だけだった。いつもはその仲間であるが、今日ばかりは違った。彰は自分が羨望の目で見られているような気がした。そうだとしても、羨望に値するかは、肯定も否定もできなかった。まだまだ暗闇を手探りで進むような感覚だった。何が待ち受けているかはわからなかった。しかし、一方でほかに道がないと確信していた。
「それじゃあ、愛し合ってはないんだね」
「……答えたくない」
「これまでの話を聞く限りでは愛し合ってるようには見えない」
「それじゃあ、そういうことでいいよ」
「君の口から聞きたい」
「なんで? それがあなたにどんな関係があるって言うのよ」
彩音は気色ばんだ。
「関係はあるよ。大ありだよ。俺は君と愛し合いたいと思っているから」
「……ほんと無理だから」
「理由は? 俺のこと好きじゃないから? それとも不倫になるから?」
彰は思わず大きな声を出した。
「やめてよ。恥ずかしいじゃない」
「一つ訊きたいんだけど、誰か好きな人はいるの?」
「そりゃあ、いるよ」
彼女はそう言って、名前を挙げたが、彼らはクラブでよく一緒になる、彩音に群がっている男性たちだった。
「みんな好きだよ。もちろん、彰さんも」
そう言って、微笑んだ。彰は意気阻喪して、会話を続ける気が挫けた。
彩音は池袋に用事があるとのことで、二軒目はなかった。駅改札までエスカレーターで移動しているとき、彩音の尻――タイトなパンツがその輪郭をなぞっていた――に、気がついたら触っていた。触った瞬間、理性が働いたことで、動作が躊躇いがちになり、そのためよりいっそうしっかりと触ってしまった。尻のふっくらとした感触が手のひらに伝わった。
「もう~、触り方がエロいんだよ」
彩音は身を捩らせると、きつい口調で詰った。改札前でハグしてくれたが、「ハグならいいんだよ」というセリフに彰は悲しくなった。
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