彩音と過ごした土曜の夜
六月下旬の金曜日、ついに彩音と飲む日が来た。嬉しいことに、飲んだあとは、道玄坂のDJバーに行くことが決まった。ナイトイベントなので、彩音と朝まで過ごせるはずであった。
バー近くのタリーズコーヒーに待機していた彰に彩音から「家を出たところ」メッセージが届いたのは、二二時すぎだった。
彰はタリーズを出て、駅方面へ歩いた。雨は止んでおり、湿った空気が肌にまとわりついた。神南郵便局の前で足を止め、ガードレールの側で人混みを眺めていると、不意に好きな女性の姿が視界に飛び込んできた。その瞬間、血が沸き立った。彩音以外のすべてが後景に遠のいた。
「彩音さん!」と彰は声を上げた。
「びっくりした」と彩音は目を見開いた。白のワンピースにデニムのシャツという女子力高めの装いにテンションが上がった。
螺旋階段を下りて、バーに入ると、客はいなかった。二人はカウンターに並んで座った。マスターは相変わらずのファッションだった。
「ここはよく来るの?」
お互いにコロナを注文してから彩音は言った。
「まだ三度目かな。前から来たいと思っていたんだけど、一緒に行く人がいなくて。結局、最初は一人で来たんだけど。全然一人でも楽しめるからもっと早く来れば良かったよ」
マスターを交えて、三人でコロナで乾杯した。
「落ち着く雰囲気ですよね」
「普段は静かだけど、ここはミュージックバーでもあるので、爆音でライブやDJイベントなんかもやりますよ」とマスター。
「彼女はDJなんですよ」
「まだまだ駆け出しですけど」
「でも、パーティーでプレイしてるんですよ」
「まあ、ぼちぼちですけど」
彩音はそう言って笑った。
「音楽はどんな感じなんですか?」
「テクノを中心に流行りの曲も取り入れますよ。基本的にパーティーに合わせます」
「ここではテクノのパーティーはないんですか?」
「そうですね。今はないかな。実はぼくの奥さんもDJやってて、音楽はメキシカンなんですけど、彼女がここで回すことはあります。ほかには知り合いのアラブ人DJとか。その人はアラブ音楽がメインです」
「そういうのはあまり聴いたことないですね」
「そうですよね。英米以外の音楽はあまり紹介されていないですからね。ぼくは英米の音楽に偏っているのは良くないと思ってるので、それ以外の国の音楽を積極的に取り上げてます」
「なるほど、それで。今かかっている曲もそうですよね」
彰の貧困なボキャブラリーでは、エキゾチックという形容しかできなかったが、アラブ音楽だろうか。以前見たジム・ジャームッシュのバンパイアものの映画で使われた曲のような雰囲気だった。
「ところで、お二人はどこで知り合ったんですか?」
「中目黒のクラブです。ぼくがフロアで声をかけたんです。一目惚れですね」
彰はそう言って、彩音を見ると、彼女は目を見開いて驚きの表情を浮かべていた。それは、自分の言ったことに対してなのか、そのことをマスターに言ったことに対してなのかはわからなかった。
「ああ、わかります。ぼくもその場にいたら、声かけたかもしれないです」
「ええっ!? 嬉しいですけど、なにも出ませんよ」
「スタイルいいですよね。何か運動してるんですか?」
「えーと、特には。クラブ活動くらいです」
「彼女、毎週毎週クラブ行ってるんです」
「そうなんですか。羨ましい」
「クラブ行きたくて、ずっと渋谷近辺に住んでます」
「彼女、神泉に住んでるんです。想像できないですよ。そんな場所で暮らすことが」
「ぼくもこの近くに住んでますよ」
「ああ、そうなんですね。二人とも大都会のど真ん中に住むってどんな気分ですか?」
「う~ん、そんなに意識したことないなあ。自然が少ないところや毎日の買い物が不便なところを除けば、いいんじゃないですか。というか、この場所でバーやってたら、ほかに選択肢ないんですよ」
「それもそうですね」
「わたしももう慣れたかな。わたしもマスターと同じかも。クラブ大好きだからほかの場所には住めない」
彩音はそう言って笑った。
「渋谷はクラブのメッカですもんね」
マスターがそう言ったとき、欧米人の若いカップルが入店した。
「もう一杯飲もうかな」と彩音。
彩音はコロナ、彰はジェムソンハイボールを追加で注文した。マスターは、カップルの注文を受けると、カクテル作りが忙しくなった。二人きりになっている間に、彰は何か自分を印象付けることを言いたくなった。
「実はぼく、昔から小説書いてるんだ」
「小説を!? そうなんだ。どんな小説なの?」
「それは……、自分の分身を主人公にして、悩みに取り組むような小説かな。だいたい実際の出来事をネタにしてるんだ。……だから、君のことも小説にすると思うよ」
彰はそう言うとニヤけた。
「えっ、わたしのことを! 書くことあるの?」
彩音は目を丸くした。
「そりゃあ、ありまくりだよ。一目惚れすることなんてめったにないんだから」
「ほんとに? 皆に言ってそう」
「踊っている姿に魅せられたんだ」
彰は彩音のセリフを無視して言った。
「そうなんですか。嬉しいけど……」
声のトーンは低く、何か否定的なことを言われそうで、彰は相手の言葉を待たずに続けた。
「最高だったよ。あの夜は。クラブであんな風に女性と話せたのは初めてだった」
「へぇ~、そうなんですね。ごめんなさい。わたし、覚えてなくて」
彰はその言葉に強か傷ついたが、努めて平静を装った。
「ぼくは鮮明に覚えているよ。話した内容だけでなく、服装や髪型まで……。でも、仕方ないと思う。きっと彩音さんにはよくあることなんだろうから」
「何がですか?」
「ナンパされることが」
「ナンパはどうでしょうね。わたしは基本的に誰に対してもフレンドリーですけど、何かない限りその後クラブ以外の場所で会うことはないかな」
「……そうなんだね」
彰は自分が選ばれた男である気がして嬉しかった。
二三時頃に二人はバーを出た。それから一〇分ほどで道玄坂エリアにあるDJバーに着いた。店内は、どちらかというと狭くてかなり暗いので、彰はいろいろと期待していた。
店内は、そこそこの混み具合。今日のパーティーは、彰が好きなメロディックテクノのDJが目玉だった。彰がダメ元で、彩音に「バーのあと、このパーティーはどう?」とメッセージを送ったところ、OKしたのだった。
彩音はドリンクを手にすると、まるで水を得た魚のようにDJブースの前で踊りだした。彰は彼女の後ろにピタリとくっついていた。髪の甘い香りが漂ってきた。彰は音よりもむしろ香りに夢中だった。
彩音は彰の耳元で何か音楽について話したが、何を言っているかわからなかった。ただ、興奮気味に肯定的なことを言っていることはわかった。彰は頷いただけだった。内心ではまずいな、と思いながら。
やがて、彩音に話しかけてくる欧米人の若い男性が現れた。彼女は彼のことを知り合いだと言った。二人が入口近くで話しているとき、入口のドアが開き、彩音は逆光に照らされたが、そのときスカートが透けて下半身のシルエットが露わになった。その一瞬のハプニング(彩音は何ら気づいてない様子だった)に、彰の鼓動が早まった。その瞬間、彩音に対して初めて生々しいエロチックな欲望を抱いた。
やたらと彩音に話しかけてくる欧米人男性に、彰はイライラをつのらせた。しかし、彼に対して睨みをきかす資格がないことはわかっていた。彩音は踊りながら純粋に音楽を楽しんでいる風だったが、彰は音楽よりも女性のほうに気を取られていた。できれば座って話でも、と思っていたが、彩音はずっと踊りっぱなしなので、それは難しそうだった。
彰は二人を尻目に酒に走っていたが、やがてその男性は店を出た。午前三時過ぎに、彰はフロアで踊っている彩音の髪に触れた。今日初めて達成感を感じた瞬間だった。
最初、彩音は彰が何か言おうとしているのだと思い、耳を近づけてきたが、そのうちに、男がしていることを理解したようだった。薄暗いフロアで彰の顔を一瞥すると、軽く微笑んだ。その微笑みは、自分の欲望を受け入れた徴に思えた。
DJバーを出たのは、午前四時過ぎだった。すでに空は明るくなり始めていた。幸い雨は降ってなかったが、梅雨特有のムシムシする空気が道玄坂を包んでいた。陽の光の下で彩音を見たのは初めてだった。夜見る顔とは印象が違った。目元や眉間のシワが露わになったが、それらは彩音の新しい魅力だった。
彰がコンビニで何か買って、道玄坂の道端で休むことを提案すると彩音はOKした。彩音はピノを、彰はチューハイを買って、道端に腰を下ろした。クラブ帰りの若者が駅を目指して坂を下っていた。彰は彩音と夜遊びしたことが嬉しかった。これは、大きな一歩であると考えた。
「今日はなかなか良かったね」と彩音。
「そうだね。満足だよ。今日は付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ。わたしもメロディックテクノ好きだから一人でも行ってたかも」
彩音はそう言うとピノを頬張った。
(かわいい。彩音が妻か彼女だったらどんなに幸せだろうか。残念ながら、彼女は人妻だ。それなのに、こうして土曜の夜から朝まで俺といて大丈夫なんだろうか?)
「……あのさぁ、誘っておいてこんなこと言うのは変かもしれないけど、土曜の夜、俺といっしょにいても大丈夫だったの? つまり、パートナーの人と過ごさなくてよかったのかなって思って」
「それなら問題ないよ」
彩音はそれ以上話そうとしなかった。
「相手の人とは仲いいの?」
「……話したくない」
彩音はこちらを見ることなく真顔で言った。空気が張り詰めた。彰は怯んだが、温めていた質問がもう一つあった。
「ところで、前に『子供が好きじゃない』って言ってたけど、それって結婚する前に相手の人に伝えたの?」
「……ううん」
彩音はそう言って頭を振っただけだった。
「そうなんだ。ちょっと気になっただけだから。別に立ち入るつもりはないよ」
彰は缶チューハイをガブ飲みした。踏み込むには覚悟を要するアンタッチャブルな領域が横たわっているように思えた。
別れ際、彰が両手を広げてハグを求めると相手はハグに応じてくれた。それは始まりの合図のように思えた。
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