達也との週末

 六月の半ばの土曜日の夜、彰は達也と代々木のHUBで飲みながら、フィッシュ・アンド・チップスなどを食していた。北参道の会場で開催されたタコスとラテン音楽のイベントにはあまり乗れず、早々に離脱してHUBで飲み直すことにしたのだった。そのとき、彰は達也に彩音のこと(エートスで会って一目惚れしたこと、結婚していることなど)を話した。


「それはワンチャンあるといいね」


「ワンチャン」とは言い得て妙だった。もし男女関係を持てたとしても、そこから友達以外の関係になることはありそうになかったから。


「そういえば、ひーちゃん、今年の十月に帰国すると思う。免許の更新で」


 彰は共通の友人の仁美の話をした。仁美は達也と知り合うきっかけとなった女性であり、かつて彰が恋慕した相手だった。彼女はディスコで知り合った男性と結婚し、相手の都合で豪州に移住したが、紆余曲折あって今はフィリピンのマニラで生活している。彰は今でも折に触れてメッセージを送っていた。


「ああ、そうなんだ。彼女、元気にしてる?」

「うん、元気だよ。相変わらずうさぎ飼ってる」

「そうなんだ。懐かしいな~。もう一〇年以上前だよね」


 彰は達也の質問を受けて、外資系企業に勤務していること、彼氏がメルボルンに住んでいることを話した。


「そうか、何気に頑張ってるんだ。当初は、オーストラリアの大学に入学する旦那に付き合って、海外移住だもんね。なかなか真似できないと思うよ」

「そうだね。美大出身者は常人とは脳の回路が違うことを見せつけられた気がしたよ」

「まあ、適応力がすごいよな。十月に帰国する日程がわかったら、連絡くれよ。俺も会ってみたいから」



 彰は食事が終わると、渋谷のバーに行くことを提案した。そこは彩音に提案した店であり、ファイヤー通りという渋谷の外れにある隠れ家的なバーだった。彰はロケハンのためにすでに一人で行っていた。


 螺旋階段を下りて、店のドアを開けると、薄暗い店内に客は西洋人の若いカップルが一組だけだった。


 二人は∨字カウンターの片方の側に並んで座った。五〇代後半のマスターはいつもハットを被ってジャケットを着ている。それが彼の仕事着なのだろう。


 達也はジャックダニエルのロック、彰はコロナをオーダーした。達也はキョロキョロと店内を見回していた。インテリアには独自の美意識が反映されていた。彰は大いに気に入っていたが、万人受けするものではないと思えた。


「雰囲気いいですね」


 達也はマスターに言った。


「ありがとうございます。飾ってある絵は、全部知り合いのアーティストの作品です」


 マスターはそう言って、バックバーを飾る三枚の絵に視線を向けた。中央にドクロをモチーフにした絵があり、両脇にドラゴンをモチーフにした同じ絵が飾られている。どちらも男心をくすぐる絵であった。


「長髪いいですね」


 達也は以前長髪にしていたことがあり、長髪にこだわりがあった。


「ありがとうございます。あまり褒められたことないので嬉しいです」

「ぼくも長髪好きなんですよ。一〇年くらい前まで長髪でした。転職活動のタイミングで切りまけど」


 達也はそう言って、タバコを巻いていた。自作のタバコは出会ったときから変わらなかった。


「ぼくは、この店を始めてからずっと今の髪型なので、九年前からですね」

「お店の雰囲気に合ってますよ」と彰。


 例えば、オーセンティックバーのバーテンのように制服にオールバックの髪型だったら、店の雰囲気と完全に齟齬をきたしているだろう。ここでは、マスターはもとより、バックバーの緑の間接照明であれ、各国の音楽であれ、インテリアであれ、すべてが一体となってバーの世界観を形成していた。


「ぼくは、昔、バンドやってまして、そのときも長髪でした。就職してからは短髪にしましたが、自営になって戻しました」

「バンドやってたんですね。いろいろな楽器ができるとは客から聞いてましたが」

「中学の頃からやってました。二〇代の頃は、バイトしながら、ライブと練習に明け暮れていました。これでもプロを目指していたので」

「ぼくも二〇代の頃は、夢見てました。ぼくは建築を勉強してたんですけど、一級建築士を目指して頑張ってましたよ。もう随分と前に諦めましたけど」

「諦めたんですか?」

「そうですね。何度かトライしたので」


 達也はそう言うと、作業に戻った。


「ぼくは、小説執筆ですね。書き始めたのは二〇代後半からですが。最後に書いたのは三年前ですね」

「小説家を目指してたんですか?」

「……それはないですね。評価されたいとは思ってましたけど。まあ、それほどのものは書けなかったですね。プロとは雲泥の差ですよ」

「でも、これからまだまだ書けそうじゃないですか?」


 マスターは、そう言って人懐っこい笑顔を向けた。


「……そうですね、書くかもしれないです」


 彰は歯切れが悪い言い方しかできなかった。書くことを止めたつもりはなかった。いつかまたと思いながら、三年が経った。バンドの練習に明け暮れていたという話を聞いて、そういう風に、好きなことをやり切ることに熱いものを感じた。ものを書くことをやり切ったと言えるかといえば言えないと彰は考えていた。もっとも何時間費やしたら、何万字書いたらそう思えるのかはわからないが。


「まあ、若い頃の夢を実現できた人はね。すごいと思いますけど、それがゴールではないでしょう。つまり、作家でもアーティストでも生き残るのはごく一握りですから。プロ野球選手だって、その後の人生で転落する人もいるようですしね」

「そりゃあ、スポーツ選手はね。今の社会は、勉強ができる人のほうが生きやすいですから。建築士や小説家を目指していたら、なれなくても、結果として、何らかの職に就ける能力を獲得できると思います」

「それは確かに。まあ、ぼくは子供がいるので、今はもう子供中心ですね。給料は時給換算したら、安いですけど、ぼくにしては、いい方なので、転職活動はしないでしょうね」

「そうなんですね。ぼくはもうできないでしょうね。まあ、この仕事してたら育てられないと思いますけど」

「ぼくは結婚もしてないし、もうできないでしょうね」

「一度も?」

「昔、同棲していたことがありましたけど、一年くらいしか続かなかったです。まあ、ぼくが悪いんですけど。ぼくが出ていったんです。女性関係で。相手の人とはもうとっくの昔に縁が切れました。同棲していた人は、もう高齢者ですけど、今でも会ってます。一生の付き合いになると思います」

「それはどういう関係なんですか?」

「妻のような存在だと思ってますよ。今では。でも、ほかの女性にもアプローチしてますし、虫が良すぎますよね」

「そうだ。虫が良すぎる。相手は彰のことなんて何とも思ってないかもよ」


 達也はタバコに火を点けると言った。確かにもう泰子と肌を触れ合わせることはない。しかし、彼女と離れることは考えられなかった。成人後二〇数年にわたり、付き合っている人は男女問わず彼女以外にいなかった。その時間を通して、老いる姿を見てきた。そのことこそが彼女を他と一線を画す存在にしていた。今の泰子にはもう男を惹きつける魅力はない。しかし、自分はそうでなかった頃の彼女を知っているし、いつでもそのときの彼女、魅力的だった頃の彼女を思い出せる。だから彼女もまた自分を必要としているのではないか、と達也は考えていた。


「そうかも」


 達也はあえて異を唱えなかった。もう泰子から飲みの誘いなどが来ることはないし、何年も彼女の家に泊まっていないという現実があったためである。結局、「妻のような存在」というのは彰の願望にすぎない可能性も大いにあった。



 バーでは、さらに二杯ほど飲んで帰路に着いた。彰は電車内で、彩音にバーの写真を送った。

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