破邪顕正のあとさき*邪悪は消えても、闇は残る。

志乃原七海

第1話:英雄の虚無

## 破邪顕正のあとさき


### 第1話:英雄の虚無


神社の境内は、未だ熱を帯びていた。


深夜、妖魔『黒い影』を討ち滅ぼした激闘から、まだ数刻しか経っていない。残るのは、血と、硫黄にも似た瘴気の焦げ付いた匂い。石畳の上には、黒く乾いた粘液の跡が斑点状に残っていた。


剣持透(けんもち・とおる)は、血と泥に汚れた狩衣のまま、石段に深く腰掛けていた。手元には、数百年の邪悪を断ち切った愛刀が、静かに鞘に収められている。


体が震えている。疲労のせいか、それとも未だ闘いの興奮が抜けきらないのか、判別がつかなかった。


「透様」


鈴鹿(すずか)が静かに近づいてきた。彼女は透の家の巫女であり、この討伐の儀式を最後まで見届けた唯一の証人だ。提げた灯籠の柔らかな光が、彼女の冷静な顔を照らす。


「終わりましたね。これほどの瘴気を放つ妖魔は、剣持家の記録でも稀だと聞いておりました」鈴鹿は安堵の色を滲ませた。


透はゆっくりと呼吸を整えた。あの妖魔は、里の安寧を乱し続けた純粋な悪意の塊だった。斬ることに、一片の迷いもなかった。


「ああ。これでもう、この山脈に厄介事は起きない」透は掠れた声で答えた。


鈴鹿は灯籠を地に置き、深々と頭を下げた。


「これで里は護られました。透様は、大義を果たされたのです。破邪顕正――邪を打ち砕き、正義を明らかにしました」


その言葉は、まるで透の存在意義を肯定する、完璧な答えだった。しかし、透の胸には、奇妙な空洞感が広がっていた。


透は顔を上げず、昇り始めた夜明けの空を見つめた。夜の闇が徐々に薄れ、青と白が混ざり合う幻想的な時間帯だ。


「鈴鹿」


「はい」


「……邪悪が、本当に消えたと、お前は思うか?」


鈴鹿は沈黙した。彼女は透の抱える重みを理解しようと、その背中を見つめた。里人にとって、邪悪とはあの恐ろしい姿をした妖魔そのものだった。それを斬ったのだから、邪悪は消滅したはずだ。


「透様が討ち滅ぼしたのです。確かに、この里を蝕む災厄は消えました」彼女は確認するように答えた。


透は刀の柄を軽く叩いた。


「そうか。ならば、なぜ、こんなにも虚しいのだろうな」


討伐の英雄として里に戻った透を待っていたのは、想像を絶する熱狂だった。


里人たちは、透の屋敷の前に連日列をなした。感謝の品々が届けられ、中には、感極まって石畳に額を擦りつける者もいた。彼らにとって、透は神仏の化身、絶対的な『正義』の体現者となっていた。


討伐から一週間。里は息を吹き返し、生活は急速に回復していった。しかし、透の心は、里人の感謝の重圧に押しつぶされそうになっていた。


「透様、これは近隣の村から届いた謝礼です。今年の収穫の三割にあたるとか」


弟子の宗介(そうすけ)が、山積みの米俵を前に、興奮気味に報告する。宗介は誇らしげだった。自分の師が、これほどまでに崇められているのだから。


「宗介。里人たちに、謝礼は辞退すると伝えろ」透は書斎で筆を執りながら言った。


「しかし、それでは里人たちの感謝の気持ちが……」


「感謝ではない。彼らは、次の『保険』を買おうとしているだけだ」


宗介は言葉を詰まらせた。


透は気づいていた。里人たちは、かつての妖魔に対する恐怖を、今度は透という『英雄』を失う恐怖へと変換している。彼らは透を厚遇することで、剣持家が永続的に里の平和を守ってくれることを期待していた。


透は里人の期待に応えるため、毎日の稽古を欠かさなかった。


しかし、稽古場で木刀を振るうたび、透の集中力は散漫になった。


「透様、どうなさいました? いつもと違って、動きが重い」宗介が尋ねた。


透は木刀を下ろし、汗を拭った。


「いや、どうもない。ただ……」


透は自分の手を見つめた。あの妖魔を斬ったときの、確かな手応えが、今は全く感じられない。純粋な悪意に向かっていた刃先は、明確な敵を失った途端、空虚な空間を切り裂くばかりだった。


「刃の先に、何もない」


その夜、透は里の静寂の中で、里人たちの囁きを遠く聞いた。


それは、もはや妖魔の恐怖に怯える声ではない。


「山田の家ばかり、剣持様への献上品を多く用意しすぎではないか?」


「いや、そもそもあの黒い影が出現したのも、山奥に住む斎藤のせいで穢れが溜まったからだ」


平和が訪れた途端、里人たちの間に、小さな不満と嫉妬が芽生え始めていた。誰が一番『正しく』、誰が一番『英雄』に報いるべきか。彼らは自分たちの中での新たな『正義』の順位付けを始めていたのだ。


透は戸惑った。剣持家の役割は、邪悪な外部の敵を斬ることではなかったのか?


あの妖魔は、明確な形を持った邪悪だった。しかし、今、里に立ち込めているのは、人間の心が生み出す、曖昧で、しかし確実に里の和を乱し始めている、別の種類の濁りだった。


透は、鞘に収めた刀の重みを改めて感じた。


この刀は、果たして、明確な姿を持たない、人間の心に潜む『邪悪』をも断ち切ることができるのだろうか。


英雄の称号は、透に重くのしかかる。破邪顕正の偉業を達成したはずの剣士は、今、自らの剣が、本来の敵を見失い始めていることに気づき、深い孤独を感じていた。


そして、その里の隙間を縫うように、一人のよそ者が里に立ち寄った。派手な着物を纏った、饒舌な薬売り――甚兵衛だった。


彼は里人たちの不満を敏感に嗅ぎ分け、彼らの心に潜む毒を巧妙に掬い上げる。


透には、新たな戦いの予感がしていた。それは、かつて斬った妖魔よりも、ずっと複雑で、剣を振るうことさえ許されない、静かな戦いになるだろうと。


(第2話へ)

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