第20話
お昼になると、社長の机の上の目覚まし時計が鳴り、みんな昼休みに入る。お弁当を持ってきている人もいたが、たいていの人は気分転換もかねて外で食事をとっていた。
「ラインゾールさん。いっしょに行きませんか?」
仕事の手順を教えてくれた眼鏡の男が声をかけてくれたので、ゼレックは彼と外へ出た。
会社の近くのレストランでランチを食べながら、クレイ・デアパートという名の社員は、陽気な声で話しかけてくる。
「わりと単純な作業が多いでしょう。注意は必要ですがね。この前なんか、ただ刷ればいいんだと思ったらしいアルバイトが、裏も表も同じ記事を刷っちゃってね。何百枚もできちまった後に気づいたもんだから、もうたいへんでしたよ。締め切りまで一時間しか残ってなかったしね。大あわてで手分けして、みんな自分の仕事置いといて手伝ってやりましたよ」
もともと、よくしゃべる人なのだろう。
年齢はゼレックより少し上に見える。会社の話をはじめ、趣味や休日の過ごし方などについて、蛇口からあふれる水のような勢いでしゃべる男だった。ひととおり話し終えると、彼はふと黙りこんだ。使いすぎて口が疲れたのだろうか。
ゼレックが、からになっていたコップに水を注いで渡すと、デアパートさんは、
「ああ、ありがとう」
と、本当にうれしそうにお礼を言った。
水を二口飲み、
「いやぁ、すみませんなぁ。止まらなくなってしまって。あんまりうるさいもんだからね、みんなには『セミ』ってあだなで呼ばれてるんですよ。家に帰ると一人なもんで、話したいことがたまってしまって……。うるさくってすみません」
彼は、猫の尻尾のような眉を寄せて謝る。
ゼレックも、シスリルが来るまでは似たような状態だったので、相手の気持ちがするりと飲み込めそうなほどによく分かった。
だから、
「うるさくなんてないですよ。おもしろい話をいろいろ聞けて、楽しかったです」
と、心の底から彼に共感を覚えながら微笑んだ。
デアパートさんはほっと一つ息をつき、
「そう言っていただけると楽になりますなぁ。弱音は吐くまいと思っているのですが、やはり、月日を追うごとにこたえてきましてね。実は私、息子に出ていかれてしまったんですよ。妻はその数年前に、病気で死んじまったしね……」
と、テーブルの上のナプキンに視線を落とした。
「息子さん、どうして出ていったんですか?」
さしつかえなければ、とゼレックは付け加えた。
「さぁ。どうしてでしょうねぇ。突然いやになったのかもしれません。やつは十八でした。息子が小さいころ、私は大きな新聞社に勤めていて、ちょうど忙しい時期だったので、ほとんど顔を見たこともありませんでした。子育ても教育も、みんな妻に任せっきりでした。おかげでね、私にはちっとも懐かなくて。今考えれば当然のなりゆきですが、妻が逝った後、針が振れるようにぐれちまって。出ていったきり、便りの一つもよこさないんだ。何をやってるんだか、今ではまったく見当がつきません」
言い終えると、彼はまた水を一口飲み、ため息をついた。
「うちも、似たようなものです」
ゼレックは、言葉の途切れた空間に布を継ぎあてるように、口を開いた。
「私もふがいないものですから、妻に逃げられまして。十歳だった娘もいっしょでした。それっきりです。それっきり、二人には会っていません」
重苦しい事実が体内から流れ出し、年を重ねた二人の男は、肩を落として再び無言になった。
そして、どちらからともなく壁にかかった時計を見て、
「そろそろ行かないとね」
「ええ」
と、力なく言葉を交わして席を立った。
「暗い気分にさせちゃってすまんね。ついつい話しすぎてしまって。午後からは気持ちを切り替えて、明るくやろう、明るく」
デアパートさんはぐんと伸びをして、ゼレックの肩を叩き、午後からは本当に誰よりも元気に働いていた。
シスリルが帰ってきたのは、それから数日後だ。少年は、アイシェルの脱走事件を、ゼレックにも話さなかった。言ってしまったら、彼女への裏切りになるような気がしていた。
「楽しかったかい? みんなと何をして遊んだの?」
「トランプとか。あと、テニス。外にもよく出かけたよ」
少年は、あたりさわりのないことがらだけを選んで答えた。
あの夜以来、アイシェルは自分からシスリルに話しかけてくるようになっていた。
「パパの写真。みんなにはないしょよ。先生たちも知らないんだから」
と、ノートにはさんだ写真を見せてもらったこともある。
そういえば彼らは、もうすぐ学校が始まるのだと話していた。
紅茶をいれてくれたレシテカに、
「あなたは行かないの?」
と訊かれて、シスリルは、首をたてにも横にも動かさなかった。
ぜったいに行かないつもりだったのに、いつのまにやら心が迷い始めている。
ゼレックは、少年のそんな変化を見抜けないでいた。彼は、時折気にかけてはみるものの、学校という言葉はもう口にしないようにしようと心がけていたのだ。
少年も、あれだけすねてみせた過去を持っているので、自分の今の気持ちをなかなか口にできなかった。
子どもの心は、周囲の影響を陽射しのように受けて、日に日に形を変えていくものだ。昨日は「ノー」だったことが、今日は少し「イエス」に傾いていたりする。ゼレックはそのめまぐるしい感覚を、大人になるうちに、すっかり忘れてしまっていた。
郵便受けをのぞいたときに、ギルドール印刷会社が刷った広告を見つけた彼は、そういえばまだ少年に伝えていなかったことがあるのを思い出した。
「君が泊まりに行っている間にね、私は仕事を探したんだよ。印刷会社で働くことになった。仕事のある日は、夕方まで家をあけるようになるけど、一人で大丈夫かね?」
実は密かに気になっていたのだ。
「もうそんなに子どもじゃないし、平気だよ。るすばんくらいできるから」
少年は、何だ簡単さ、というように鼻で笑って返す。素直ではない彼だから、それが本心なのか強がりなのかまったく分からない。
シスリルがその後すぐ顔をそむけてしまったので、ゼレックはそれ以上言葉を継ぎ足せなかった。
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