第19話
つたない口調でお礼の言葉を口にして、少女はすっと闇に溶けてしまった。
今彼女の手の中にあるのは、柄の部分が透き通る青の、するどくとがったナイフだ。アイシェルは、バラ園に行っておまじないをするつもりだった。
夜のバラ園は神秘的な雰囲気で、月光に照らされ、犬の瞳のように濡れた道が足元に広がっている。
「ごめんね、フィーシェ」
少女はぽそりと謝った。
「パパのためなの」
集めた草の上に犬を寝かせて、ナイフをかまえる。満月の夜にいけにえをささげれば、悪魔が願いをかなえてくれるはずなのだ。本で読んだおまじないを信じ込んでいるアイシェルは、ぎゅっと目を閉じて、ナイフを握る両手を振り上げた。
「何やってんだよ!」
突然、弾む息とどなり声が空気を切り裂いた。
「だめだろ、そんなことしちゃ」
細いけれど自分のよりは大きな手に、思いきり手首をつかまれる。
「……シスリル」
たった今覚えた言葉のように、アイシェルはつぶやいた。
少年が、おびえているのか怒っているのか、小さく震えながらすぐそばに立っている。月光のせいで白く見える指が静かにナイフを取り上げて、アイシェルの手を解放した。
「勝手に部屋抜け出して、こんなところで何やってるんだよ」
と、少年が、彼の中ではいちばん低い声を出して訊く。
「おまじないしてたのに」
まだ少しぼうぜんとしたまま、アイシェルは答えた。
「もうちょっとで、パパ、生き返るところだったのよ」
涙が出そうだった。
「生き返るって」
何のことか分からないシスリルが問う。
「去年、馬車が木に当たって死んだの。風の強い日に、無理に走らせたから。パパ、ぎょしゃだったの」
アイシェルの話はたどたどしかったが、内容はちゃんと伝わった。
「それで」
「うん。満月の夜にね、いけにえをささげると、悪魔が死んだ人を呼び戻してくれるって。本で読んだの」
要するに、父親を生き返らせるために、犬を殺そうとしていたということだ。
シスリルは何も言わず、しゃがんで小さな犬を抱き上げた。目を覚ましたフィーシェは、自分が今まで危険な状況に身を置いていたことも知らず、きょろきょろと辺りを見回して、しっぽを振っている。
「フィーシェを殺したって、アンタの父さん、生き返らないよ」
犬を抱いたまま、シスリルは言った。
彼女よりは長く生きているとはいえ、自分もまだ子どもだから、上手に伝えられない。「命は大切だ」とか、「犬の気持ちになってみろ」とか、そういうことを熱く語りかけるには、彼は少々冷めすぎていた。
けれど、どんな神様に頼んだって、死んだ人は二度と生き返らないのを、少年は自分自身でよく知っているのだ。
「どうして?」
アイシェルは、宙を見て尋ねた。
「分かんないよ。でも、死んだ人はぜったいに生き返ったりしないんだ。オレの母さんも火事で死んだから、アンタがさびしいのとかつらいのとかも分かる。けど、フィーシェを殺しちゃだめだ。本当は、好きなんだろ?」
シスリルは、真剣な表情で彼女を見つめた。
「うん」
少女はうなずく。
「だったら、もし殺したりしたら、アンタは二つの命をなくして余計悲しまなきゃいけなくなる。フィーシェも生きてるから。死んだらもう二度と、帰ってこないんだ」
シスリルは、バラ園の静寂に響く声で言った。
少年は犬に目を落として、口唇をかんでいる。まだ幼い彼女にも、命というものの重大さが伝わってきたようだ。
少年が犬を渡してやると、アイシェルは、ぎゅうっとその小さな生き物を抱き寄せた。ほおを押し当てて、鼓動を聞くような姿勢で、
「ごめんね、フィーシェ」
と、か細い声を出して謝る。
犬は何も気づいていないのか、それとも分かっていてそうするのか、なぐさめるようにただアイシェルの顔をなめた。
少女は、昔からのくせなのか、声も出さずに、肩を小さく震わせて泣いていた。
シスリルが黙って背をなでると、
「あたし、どうしたらいいの」
と、彼女はぽつんとつぶやいた。父親の死を、納得しきれないのだろう。
「パパのこと、忘れないでいてあげなよ」
シスリルは、しばらく迷った後に、自分がしていることを、そのまま答えとして口にした。
「たぶん、どっかで見ててくれるからさ」
気休めのつもりで言ったのではなかった。シスリル自身もそう信じて、ときどき空を見上げたり、母の好きだった歌を歌ったりしているのだ。
「……うん」
アイシェルは、犬の頭にあごをうずめて、深く深くうなずいた。ぽたっと落ちた涙を、犬は不思議そうに受けとめて、まんまるい目で少女を見上げた。 ユゼールとシノンが二人を見つけたのは、それから少し後だ。アイシェルがフィーシェをいけにえとしてささげようとしていたのを、シスリルは彼らに言わなかった。ナイフを返すのは明日にして、本当のことは何も告げないまま、施設まで戻ってきた。
大人たちはまだ寝ているようで、子どもたちが抜け出したのにも気づかなかったらしい。それがおかしくて、四人は顔を見合わせて笑った。
「何やってたんだ、おまえ」
シノンがアイシェルに訊いたので、シスリルは代わって答えてやった。
「フィーシェの散歩だって」
「散歩ぉ。今日は昼間行っただろ、寝ぼけてんのか?」
ユゼールが笑ったが、みんなもう眠くてたまらなかったので、それ以上は誰も追及しなかった。
ベッドに倒れ込むと、気絶するように、四人は眠りに落ちた。
子どもたちは、特に問題もなく過ごしているようだった。「困ったことがあったときには連絡してほしい」と先生たちに頼んでおいたのだが、今のところ電話はかかってきていない。
何も知らないゼレックは、採用してくれた印刷会社に、翌日からさっそく勤め始めた。
印刷会社の社員は、最初に聞いていたとおり、年配の人ばかりで、ゼレックは中間くらいの年齢だった。仕事は、街で配られるちらしを大量に印刷することや、名刺を作りたいお客さんのお手伝いをすることだ。
小さくて、決してもうかっているとはいえない会社だが、のんびりした空気が漂っていて、居心地がよかった。給料も、よその会社に比べればずっと少ないが、シスリルと二人の生活ならじゅうぶんやっていけそうだった。
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