第16話

「毎日毎日、そりゃあ痛かったけど、ある日どっかのえらい人が来て、ぼくをここに連れてきたんだ。パパはそれからどうなったか知らない。ここ、ぼくはあんまり好きじゃないけど、家よりはましさ」

 シスリルとはまた違う種類の不幸を体験した彼は、さばさばした声で言って、軽く首を振った。手が絵の具で汚れているために、目にかかる前髪をかきあげられないらしい。

 シノンは、もう絵を描くのには飽きたのか、本をぱらぱらめくりながら、父親について話してくれた。

「うちはお母さんが病気になって入院しちゃったから、お父さんが一人でみんなやってたな。毎晩毎晩、料理も作ってくれたし、学校の行事にも来てくれたよ。ときどき、本も読み聞かせてくれたけど、そのうち『自分で読め』ってさ。いっぱい買ってもらったよ。お父さんはとっても優しかったけど、ある朝ぷらっと出てって、それっきりさ。おれは知らなかったけど、女の人と馬車に乗るのを見たって、近所の人が」

 母親は、シノンと暮らせるような状態ではないため、今のところ彼には、この施設以外に行き場はないのだという。

 シスリルは自分の父親を覚えていないが、二人の話によると、「父さん」にもいろんな人がいるらしい。いないまま、というのも一つのあり方なのかな、と彼はふと思った。

 模造紙をすみからすみまで使いきって絵を描き終えたころ、アリムエルさんが帰ってきた。

「遅くなってごめんなさいね。仲よくできたかしら」

 彼女の明るい声に、三人は無言のうなずきで答えた。

 大人に対しては言葉少なになることが多い少年たちは、ほとんど何も語らなかったが、三種類の絵でうめられた大きな紙が、何よりも雄弁に、友情の芽生えを物語っていた。

 しばらくして、アイシェルとの散歩を終えたゼレックが迎えに来たので、シスリルは帰ることになった。

「また来なよ」

 ユゼールとシノンは照れくさそうにぼそっと言って、ひかえめに手を振った。シスリルも浅くうなずいて、手を振り返した。

 アイシェルは、物陰に隠れてしまって、何も言わなかった。

「じゃあね、元気でね」

 ゼレックが声をかけると、ようやく、

「バイバイ」

 と、口にした。

 シスリルのほうは、一度も見なかった。



 少年は、最初のうちこそつまらなさそうな顔をしていたが、帰り道ではしじゅうにこにこしていた。どうやら、施設の子どもたちとは楽しい時間を過ごせたらしい。アリムエルさんと話していたときは、彼をここへ連れてきたのは間違いだったろうかと反省したが、結果的にはやはり行ってよかったのだと、ゼレックは思うことにした。

 寝室を塗りつぶすように月光が射し込んできて、白いシーツの上に黄色い水たまりを作っている。今夜はとても明るい。

(それにしても、あの子は奇妙な子だったな)

 ゼレックは、うとうとしながらアイシェルのことを考えていた。

 彼女は、散歩の間ほとんどしゃべらなかった。ゼレックが話しかけても答えなかったが、べつに何かに苛立っているわけではなく、急にまた人見知りが戻ってきたからのようだった。

 少女にはどこか不思議なところがあり、年齢よりも大人びて見えたり、反対にずっと幼く思われたりして、つかみどころがまるでないのだ。

 バラ園まで歩いて、小高い丘や散歩道でフィーシェを自由に駆け回らせ、少女は何かを思い詰めているようなかたい表情で遠くを見ていた。

「いつもはどんな遊びをしてるの?」

 ゼレックが尋ねても、

「おまじないよ」

 と、ひとことぽつんと返しただけで、それ以降の問いには答えなかった。

 比べるわけではないが、オルシェはこのくらいの年のころ、休む間もなくしゃべっていたものだ。母親に似た声で、覚えたばかりの歌を歌い、さっき見た猫のことなどをいつまでも話していた。

(あの子にもいろいろ、事情があるのだろう)

 それ以上のことは分からないし、家族構成や生い立ちは、うかつに尋ねるべきではない。

 けれど、シスリルも少年たちと仲よくしているようだし、彼女とはこれっきりにならないような気がしていた。

(ゆっくり分かっていけばいいさ)

 ゼレックはそう思うことにして、静かに目を閉じた。



 シスリルは、ゼレックと同じ部屋では寝ていない。もう親と同じ部屋で寝るような年齢ではないし、第一、ゼレックとは親しい仲だけれど一応他人なのだ。

 たいていはお気に入りの揺りイスで眠るのだが、今日は疲れていたのでベッドで寝ることにした。この間、ゼレックに買ってもらったものだ。いつもはすぐに眠ってしまう彼だったが、今夜はいろいろな考えが頭をめぐって、目を閉じてもなかなか寝つけなかった。同世代の子と久しぶりに言葉を交わしたことで、彼の精神は興奮していた。

(ユゼールに、シノンっていったよな)


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