第11話
ベルチェローレ児童福祉院は、ラファーレの街と隣の市の境界線に近いところにある。シスリルが、都会の学校での日々を思い出す可能性は、低いと思われた。ゼレックもあの街には苦い記憶をたくさん残してきているが、少年はおそらく、それ以上のものを抱えているだろう。また怒らせたり悲しませたりしはしないか、ゼレックは少し不安だった。
けれど、その不安以上に、施設を訪問することで少年が得られるものへの期待のほうが、彼の中では大きかった。
施設の場所について、院長との電話の後で、シスリルにくわしく話したが、彼は顔色ひとつ変えず、
「ふうん。いいよ、べつに」
と、そっけない態度で了承した。
ゼレックの心配はどうやら、取り越し苦労だったらしい。
かくして、子どもたちの夏休みが始まって何日か経ったある日、男は少年を伴って、児童福祉院の門を叩いた。
数年ぶりに見る施設は、古城のような雰囲気から一転、明るいおとぎの城に造り変えられていた。壁の色は塗り直され、うっそうとしていた木々は手入れされて、足を踏み入れやすい外観に整えられている。
「アンタんちより大きいね、ここ」
来る途中にゼレックが買ってやった麦わら帽子の下から見上げて、シスリルがぼそっと言った。
院長に出迎えられ、二人はまず院長室に通される。
校長室によく似たその部屋の前に来たとき、少年は肩をこわばらせ、
「やっぱりここ、学校だろ。だましたの?」
と、小さな声でゼレックを責めた。
「似ているけど違うよ。だましたりするもんか」
二人の会話が聞こえたのか、背中を向けたままの院長が、シスリルに訊く。
「君は、学校がきらいかね」
「はい。きらいです」
少年は、きっぱりと答えた。
「そうかい。最近はそういう子が多いみたいで、悲しいね」
院長は振り返り、本当に悲しそうに眉を寄せて言った。
ガチャリと木のドアが開かれると、柔らかく包み込むような花の香りが、廊下まで流れてくる。摘み取られたばかりらしいユリの花が、机の上の花びんに活けられているのが見えた。
「さ、どうぞ、入っておかけください」
院長が二人に勧める。それが聞こえたからか、奥にいた誰かが涼やかな声で尋ねてきた。
「あ、お客さん? お茶いれましょうか?」
「ああ、レシテカ。来ていたのかね。じゃあ、頼むよ。四ついれて持ってきて、君もここにかけなさい」
「はあい」
少女が返事をした後、陶器の軽くぶつかる音や、ポットからお湯を注ぐ音が聞こえた。
「あれからいろいろと改革が進みましてね。今では、院長室にもカギをかけず、自由に入れるようにしているんです。ここには重要な書類なども置いてませんしね。子どもたちが少しでも親しみを感じてくれるように、話したくなったらいつでも来ていいことにしています」
ソファに深く腰かけて、院長は説明した。
先ほどの声の主について、ゼレックが尋ねる前に、
「レシテカを覚えていますか?」
と、院長が彼女の名を口にした。
「ええ、もちろんですとも! レシテカのことは本当によく覚えています。また会えるようになるとは思いませんでしたよ。彼女も、すっかりお嬢さんになっているんでしょうね」
ゼレックは、懐かしい気持ちを隠せなかった。
レシテカは、彼が議員だったころに、読書室で言葉を交わした少女だ。薄暗い部屋に閉じこもっていた幼い少女は、あれからどんなふうに変わっていったのだろう。
思いをはせる間もなく、カップを載せたトレイを持ったレシテカが現われた。
「先生、私もいっしょにいて本当に……」
いいんですか、と訊く途中で言葉を止め、彼女は驚きの表情を顔に広げた。
ゼレックをまじまじと見て、
「ラインゾール……さん……」
と、つぶやくように呼ぶ。
「ラインゾール議員」と口にしかけて、ゼレックがもう議員ではないことを思い出したのだろう。議会で不正があったときは新聞にも大きく載ったから、彼女はそれで知ったのかもしれない。
「久しぶりだね、レシテカ」
ゼレックはにっこり笑って、美しく成長した彼女を、まぶしい気持ちで見上げた。レシテカに会うのはずいぶん久しぶりだが、あのころの面影が多分に残っているために、それほど戸惑いは覚えない。
少女は、上等の食パンのようにきめの細かい白い肌をして、藍色の夜空に似た瞳で世界を見ていた。ふわりとゆるくうねって流れる小枝色の髪を、前と後ろに振り分け、小さな耳をちょこんと出す髪型も、昔から少しも変わっていない。年齢より大人びた印象を与えるところも、あまり積極的にしゃべらないところも、そのままのようだった。
彼女を見ていると、同時に娘のことも思い出されて、ゼレックの胸はきゅうと締めつけられた。彼は過去に何度か、レシテカと年の近かった娘を連れて、施設を訪ねていたのだ。
オルシェとレシテカは、おとなしいところが似ていたせいか、すぐ仲よくなり、長いこといっしょに遊んでいた。レシテカの新しい学校での友人が、それに加わる日もあった。
少女との過去を振り返るとき、娘の記憶もともに掘り返されて、ゼレックはいつも、何ともいえず切ない気持ちになるのだった。
レシテカのほうも、ゼレックを記憶の中の姿と照らし合わせるようにじっと見ていたが、隣にいる少年にふと気づき、
「あら。あの女の子、男になっちゃったの?」
と、尋ねた。
もちろん、本気で言ったわけではないのだろうが。
ゼレックは軽く笑って、
「いやいや、この子はオルシェじゃないよ。シスリルというんだ」
と、少年を紹介した。
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