第10話
視察を終えてからの議会で、彼は調査結果を報告し、いじめの実態があまりにひどいものだったので、彼女をよそへ転校させた。学校の勉強がよく理解できず、ついていけなかったことも、彼女を孤立させる原因の一つになっていると気づいたからだ。少人数の小さな学校で、他の学年の子どもとも席を並べて学んだことにより、少女の成績は伸びて、表情も明るくなった。
何も語らない本にうもれて、孤独とともにうずくまっていた少女は、しだいに閉じこもらなくなった。ゼレックが、議員として唯一納得のいく仕事をした思い出だった。
調査期間が終わってからも、彼は何度か施設を訪れたが、議員をクビになってしまってからは、さっぱり様子を見に行っていない。あの少女はあれから、どんなふうに成長したのだろう。
記憶が足音をたてて胸の奥へ戻っていった後も、ゼレックは、ぼんやりと少年の絵を見つめていた。うずくまっていた少女の姿が、ゆっくりと少年の背中に重なる。
この子も、まわりが手を回していれば、今ごろは施設に入っていたのだろう。学校にも行かない、施設にも入らない、一人の世界で生きようとする彼を、このまま放っておいてよいのだろうか。思案をめぐらせたゼレックは、ふと一つの名案に行き当たった。
「シスリル」
へそを曲げている少年の名を呼ぶ。
「……」
当然ながら、返事はなかった。
「……シスリル」
男はその強情さに手を焼いて、子どもを叱るときに出すような、怒りをこらえている声で繰り返す。
「……」
少年はどこまでもかたくなな態度を維持しようとしていた。
「もういいかげん、だんまりはやめなさい。私が悪かったよ。『学校へ行け』とはもう言わないから。今度こそ、誓うよ」
ゼレックはついに音をあげた。
シスリルは、ようやくこちらへ顔を向ける。相変わらず不機嫌そうな顔をしているが、話を聞く気になったらしい。
「何?」
この年ごろの子どもがよく使うだるそうな口調で、少年は促した。絵を描くのは中断しているが、絵筆は離さない。
ゼレックは、形はどうあれ少年が再び心を開いてくれたことに安堵し、先ほど浮かんだアイデアを口にした。
「君、施設を訪ねてみる気はないかい?」
「……シセツ?」
少年が聞き返す。
あまり耳に覚えのない単語だったようで、きょとんと首をかしげていた。
「そう。施設というのは、保護者がいない子や、理由があって育ててもらえる環境にない子どもをあずかるところだ。といってもね、君を今すぐそこへあずけようというのではないよ。君はとても絵がうまいから、施設の子どもたちに、絵を描くことの楽しさを教えてあげてくれないかと思ってね」
シスリルに友達ができればいいなという期待もあったし、施設の子どもたちにとってもプラスになるだろうと確信していた。
思うままに描く楽しさを誰よりもよく知っているこの少年なら、他の子どもたちにそれを分け与えることもできるだろう。人を喜ばせられる経験をしたら、彼もきっと、再び自信を持って踏み出していけるのではないかと思うのだ。
昔教師をしていたせいか、子どものことになると、ついどっぷりと入れ込んでしまう。シスリルとはまだ、出会って数か月も経過していないのに。自分の内に、若いころからまったく変わっていない部分があるのを自覚して、ゼレックは苦笑した。
シスリルは、彼の提案を、眉間のしわの奥でもてあそんで、自分なりに消化する。
「つまり、オレが施設に行って、そこの子たちといっしょに、絵を描いたりして遊べばいいってこと?」
「ああ、そうだよ。そんなに難しくないだろう?」
ゼレックはうなずいて、少年の次の言葉を待った。
シスリルが引き受けてくれるなら、今すぐにでも施設に連絡をとるが、彼がどうしても行きたくないというなら、あきらめるほかない。
少年は、しばらく考えてから、
「べつにいいよ。アンタがそう言う……言ってくれるなら」
と、頼られているのを感じ取ってかまんざらでもなさそうに続けた。
ずいぶん長い間行われていただんまり比べも、これでおしまいになりそうだ。
「ありがとう、シスリル。施設の子たちもきっと喜ぶよ。連絡してみて、日が決まったら伝えるから、そのときはどうかよろしく頼むよ」
ゼレックに軽く肩を叩かれて、シスリルは久しぶりににっと笑い、上機嫌で絵の続きを描き始めた。
少年が、実際に施設――ベルチェローレ児童福祉院――を訪ねることに決まったのは、それから約一週間後だ。
ゼレックが電話をかけて用件を話すと、院長は快く承諾して、子どもたちの学校が休みの日をあけておいてくれた。議員をやっていたころのゼレックを、院長はちゃんと覚えていたのだ。お互い、流れた月日のぶんだけ年をとり、院長はすでに定年退職を間近に控えた年齢になっていたが、穏やかな声や話しだすと止まらないところは昔のままだった。
一方、施設のほうは毎年少しずつ変わっていき、かつての暗いイメージは塗り替えられつつあるという。今は、勉強や衣食住だけでなく、遊びや情操教育の面でも充実をはかろうと模索中なのだそうだ。けれど、子どもたちを芸術に触れさせたいと思っても、来てくれる先生がいなくて困っていたのだ、と院長は話していた。
シスリルはまだ子どもだが、とても絵が上手だし、同世代と関わりを持つきっかけになるかもしれない。きっと、双方にとってよい経験になるだろうと、大人たちの意見は一致した。
正直にいえば、再びあの街に足を踏み入れることに、抵抗がないわけではない。だが、この辺りで施設というとあそこしかなかったし、議員をやめてからも、ずっと気になっていた場所だった。
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