第9話

 さびついたアルミバケツが一つ、天井からぶら下がっており、棚の前には、森を描いたキャンバスが立てられている。明かりは小さなランプ一つしかなく、イスも机もないその空間は、物置か何かのようだった。今、かたく口を閉じている少年に尋ねても答えてはくれないだろうから、男はただ見ているしかない。

 シスリルは、無表情ではあったが、絵を描くことを心から楽しんでいるらしかった。筆運びは相変わらず軽やかで、チョウが宙を舞いながら羽の色をこぼしているようだ。

 普段は、天気さえよければ朝のうちだけあの川辺に出かけ、水に足をひたして絵を描いている彼は、今日はどこにも行かずこの場所にとどまっていた。

 どうやら、口をきかない状態は、少年にとっても、快適とは言いがたいらしい。解消したいけれども、自分から切り出すのはプライドが許さないので、かたくなに沈黙を貫いているのだろう。あえて男の前から動かないのは、「何か話しかけてほしい」というメッセージなのかもしれない。

 ゼレックは、何か気のきいたことを口にしたいと思考をめぐらせてみたが、行きつくのはつまらなくこりかたまったお説教ばかりで、仲直りどころか余計に波を立ててしまいそうだった。

 思案を繰り返しつつも、ゼレックは少年の絵に見入る。

 画用紙の中の、ゆうに二百冊はこえていると思われる本は、本棚に入りきらないようで、ひもで束ねられて床にも積まれている。たくさんの本を見ているうち、ゼレックの脳裏には、さまざまな記憶がよみがえってきた。

 都会にいたころ、本でできたような書斎を持ち、暇さえあれば一日中入りびたっていたことや、学校の図書室で本好きの生徒と語り合ったこと。少年の描く絵の中の場所は、落ち着いた雰囲気が、学校の図書室の一角にどこか似ていた。

 ゼレックは、教師だったころ、図書室で昼休みを過ごすことが多く、本について以外はあまり語らないおとなしい生徒たちと、楽しい時間を共有していた。難しい科学の本ばかり読んでいた、発明家志望の少年は、今も夢を追い続けているのだろうか。学校での日々はとても穏やかで、ゼレックはときどき、時の流れが止まっているように感じることさえあった。

 本に関する思い出は、どれも静かで優しいものばかりだったが、中に一つだけ、雪の上に落ちた赤い花びらのように、異なる色彩を放つ記憶がある。議員になって数か月経過したころに訪問した、都会の施設でのことだった。

 当時、議会は、施設の子どもたちの教育に目を向けており、それまでおざなりだった児童福祉施設の管理体制を見直そうと、積極的に調査を進めていた。

 ゼレックは、議員の代表として、ラファーレの街の児童福祉院に視察に行くことになった。何らかの理由で親の保護を受けられなくなった子ども、特別なケアが必要と思われる子どもがそこに集められて暮らしているのだ。 

 施設は、寄付された古い貴族の屋敷を、いくらか手を加えて使用しており、広い庭も礼拝堂もあったが、子どもの数はその大きさに見合わず少なかった。ゼレックが調査を引き受けたときも、ぜんぶで六人しかいなかったのである。

書類のやりとりだけでもじゅうぶんに資料が作れそうだったが、「ぜひ一度いらして、中を見学なさってください」と、院長が手紙を書き送ってきたので、実際に足を運んで、施設内を視察させてもらうことにしたのである。

 施設に着くと、まず院長室に通されて、運営の状況や子どもたち一人ひとりの話を聞かされ、それから建物の中を案内された。施設には、少年五人と少女が一人あずけられていた。少年たちのほうは、そろそろここを出ていく年齢も近かったので、就職するために街の工場や会社に見習いに行っていた。残されている少女はまだ幼く、七歳になったばかりだということだったが、ほとんど誰とも口をきかず引きこもってしまっていると聞かされた。

 ひととおり建物の中や庭の様子を見せてもらい、国で決められていることが守られているのを確認した後、ゼレックは彼女のもとへ向かった。心を閉ざした少女との対話は、もの言わぬ消火器の数を数えたり、寝具が不衛生でないか調べたりするのとはわけが違う。

彼は戸惑ったが、議会の命令で視察に来た手前、子どもの様子を見ないで帰ることはできなかった。

 少女が閉じこもっている読書室に行き、カギがかかっていないドアをそっと押し開けた。薄暗い室内で、本棚にもたれかかってひざを抱えていた少女は最初、ゼレックが何を話しかけてもまるで反応しなかった。

 けれど、彼がその日一日だけここで過ごす部外者で、すぐに帰ってしまうのだと知ると、少女はようやく警戒を解いて口を開いた。ゴミ収集車にゴミを差し出すように、たまっていたものをぼそぼそと外へ出し始めたのだ。

 今通っている学校ではいじめにあっていて一人ぼっちであること、家にいたときぎゃくたいを受けていてつらかったこと、ここの人はみんな優しいけれど、怖くて誰も信じられないということ……。

 ゼレックは、その一つ一つをじっくり聴き取り、「みんなを信じても大丈夫だ」とゆっくり繰り返した。そして、彼女をそっと立たせ、服についたほこりを払い、涙で汚れた顔をふいてやったのだ。


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