第8話

 ざあざあと、家々の屋根に金づちでくぎを打つように降る雨が、空間を音でうめつくし、長い沈黙を二人にもたらした。しかし、それはもう、きゅうくつでぴりぴりしたものではなく、優しく穏やかな静けさだった。

 その昼と夜、ゼレックは少年のぶんも食事を用意し、少年は、皿洗いをやってみたいと申し出て手伝った。彼は、水に身体をつけるのが好きなのだろう。皿洗いは初めてのようだったが、手先の器用な彼に洗われると、皿はみるみるうちにきれいになった。

 そぼくな田舎の集落に似合わない、タイル張りのシャワールームで身体を洗った後、タオルで髪をふきながら、シスリルはふと気になったことを口にした。

「ねぇ。アンタの奥さん、いつ帰ってくるの?」

 さっき、ゼレックが「妻」と言ったのを思い出したらしい。外出中にしてはなかなか戻ってくる気配がないので、尋ねたのだろう。

「今日は帰ってこないのだ」ということにしてしまってもよかったのだが、彼とは長いつきあいになりそうだから、いずれ分かることならばと、ゼレックは真実を話した。

「たぶん、、もう帰ってこないだろうね。数年前に、娘を連れて出ていってしまったきりさ」

 重苦しくならないように、肩をすくめて無理に明るい声を出してみたけれど、言葉の持つ悲しさが、少年の表情をゆがめてしまった。

「ごめん、オレ、いけないこと訊いちゃった」

 髪をふく手を止めて、シスリルはすぐに謝る。

「べつにかまわないさ。いずれ言おうと思っていたことだし。私だって、君にいろいろ尋ねたからね」

 ゼレックは、首を横に振って微笑んでみせた。

 少年は、それで少し救われたように顔を上げ、しばらく間を置いてから言った。

「そういや、今さらなんだけど、オレ、ずっと『アンタ』って呼んでるよね。いやならやめるけどさ、どう?」

 あまり上手な口のきき方をしていなかったことに、やっと気がついたらしかった。

 男は、短い思考の後、

「いや、そのままでいいよ」

 と、返答した。

「君がまじめな顔をして『おじさん』と言うところを想像すると何だかおかしいし、『ラインゾールさん』なんて呼ばれるのも、よそよそしくて悲しいからね。君がいちばん自然に口にできる呼び方でいいよ」

『アンタ』なんて言葉は確かに、礼儀の面からみたら不適切かもしれないが、ゼレックはかけらも不快さを感じていなかった。少年の、無理をしてとがった表現をする声は、まだ子どもらしい響きをじゅうぶんに残していて、彼には微笑ましかったのだ。

 月の光の射さない夜がしだいに深くなり、少年は無防備に大きな口をあけて、いくつもあくびをした。

「眠いなら、私のベッドでお休み」

 と、ゼレックは一つしかないベッドをすすめたが、シスリルは、

「ここがいい」

 と、揺りイスを寝床に選んだ。

 静かに揺れる古いイスでうとうとする彼に、タオルケットをかけてやりながら、ゼレックは、

(明日も雨がやまなければいいのに)

 と、密かに願った。



 それから二週間。

 決して、毎日雨が降り続いたわけではないが、少年はゼレックの家に居続けた。最初の日の翌日とその次の日がどしゃ降りの雨とひどい風で、引き続きここで過ごすことになったのだ。四日目以降は何となく、それがあたりまえのように感じられたのかもしれない。

 事情は違えど、それなりに長いこと一人で暮らしてきた二人にとって、誰かがそばにいる生活というのは、温かく心地よいものだった。ちょうど、雪山でそうなんして、救助された後に飲むホットミルクのありがたさに似ている。がんこで意地っぱりな少年が、口にこそ出さないが「もう少しここにいたい」と思ってしまったとしても、不思議ではない。

 ゼレックは、シスリルが彼なりに自分に信頼を置いてこの家にとどまってくれているのを、喜ばしく感じていた。直接それを伝えたりしたら、素直ではない彼は、反発して出ていってしまいそうなので、決して言葉にはしなかったけれど。

 二人での生活に慣れて、少しずつ緊張がとけてきたせいもあったかもしれない。ゼレックはうかつにも、少年が最初にいやがっていたことを再び口にして、彼の機嫌を損ねた。

「もう一度、学校へ行かないか」

 ゼレックは、少年の将来を考えて言ったのだが、シスリルはすっかりへそを曲げ、いつかの宣言どおり、口をきいてくれなくなった。

 木々の間から光が射す部屋の床に画用紙を広げて、少年は無言で絵を描いている。さてどうしたものか、と軽く額を押さえて、男は考え込んでいた。

 必要最低限どころか、必要な会話すらほとんどしない状態が、もう三日ほど続いている。いっしょにいた期間に占める割合は小さいけれど、ずっと同じ家の中にいると、ずいぶん長く感じられるものだ。

 学校へ行けと勧めたことよりも、学校でのいやな思い出を彼の胸によみがえらせてしまったことのほうが、シスリルを怒らせたようだった。

 少年はさっきから、夢中になって紙の上に色を重ねている。周辺の植物から作られた絵の具は、人工の明かりの下でも鮮やかに映えた。彼が今描いているのは、またもどこかの家の中だ。シスリルは、目の前にあるものを見て描くよりも、記憶の中の場所を写し取るほうが得意なようだった。

(燃えてしまった家の絵は、あれで完成ではなかったのだろうか)

 ぼんやりと筆の動きを追いかけながら、ゼレックは考える。

 新しく描きこまれていく絵は、先の四枚と比べると、薄暗い色で統一されていた。他の部屋よりもせまく、背の高い本棚が壁に沿って置かれ、中に本やスケッチブックがぎっしり詰められている。本はどれも、ぼろぼろといってさしつかえないほど古く、うっすらほこりをかぶっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る