第7話
「乗っていたんじゃなかったのかい」
そばに立っているところしか見ていなかったが、ゼレックは不思議に思って聞き返した。「だって、乗ったら壊れちゃいそうだったからさ。悪いと思って」
少年は、グラスの中に残った氷をかみ砕きながら答えた。
遠慮してしまうのも無理はない。あのイスはあまりに古そうに見えるものだから。実際は、ゼレックが腰かけても壊れないくらい、しっかりしているのだが。
少年の気遣いがうれしくて、思わず口元をゆるめながら、男は快だくした。
「かまわないよ。壊れやしないから」
少年は、
「ありがと」
と、にっと笑って、再び揺りイスのほうへ近寄る。
手かげんしつつも軽やかに飛び乗られて、揺りイスは動き始めた。ぎしり、ぎしりと歯ぎしりするような音はするけれど、床についた部分はちゃんと安定している。
少年は、背を深くもたせかけて一度、勢いをつけてイスを揺らした。最初に大きく波打つと、あとは余韻でその動きが続いていく。揺りイスは、しばらくの間揺れていた。
シスリルは目をつむり、赤ん坊をあやす母親の腕のような心地よさに身を任せて、歌を歌い始めた。おそらく、自然に口をついて出たのだろう。ゆるやかで澄んだ声がたどるのは、子守唄のフレーズだ。
少年がずっと幼いころに、彼の母親が聴かせていたものだろうか。ゼレックの妻も昔、同じ歌を口ずさんで娘を寝かしつけていた。懐かしさがこみあげてきて、音を合わせて少し歌うと、少年がゆっくり目をあけた。
キィ、と揺りイスを足で止めて腰を上げ、
「アンタも知ってたのか」
と、照れたようによそを向いて尋ねる。
「知っているさ。私の母も、妻も歌っていたからね」
ゼレックは、窓のほうへ歩いていく彼の後ろ姿を目で追いながら、答えた。
「そっか」
少年はつぶやいて、窓を大きく開いた。風がざぁっと駆け込んできて、彼の砂色の髪を乱暴になでる。
「母さんのことでも思い出したかい」
男は、静かに訊いた。
「少しね」
驚くほど素直に、少年はうなずいた。
吹き込んでくる風のしめっぽさから、近いうちにひと雨くるな、ということが分かった。
けれど、ゼレックは、「降らないうちに帰れ」とは決して言わなかった。少年のほうも、「くもってきたから」と帰りたがったりすることはなかった。
そして、予感したとおりほどなくして雨が降りだし、シスリルとゼレックはドアのところで軽くもめた。
「だから、オレはもう行くって」
「待ちなさい。こんなに降っているのに。かぜでもひいたらどうするんだ」
そろそろ森へ帰るとかたくなに主張する少年の細い腕をつかみ、ゼレックは彼を外へ出すまいとした。雨は冷たく、肌をむち打つように降っている。かさをさしていても、風にあおられてびしょぬれになってしまう。しかもこの少年には、自然の中以外に帰る場所がないのだ。
「いいったら、もう」
シスリルは身をよじって逃れ、反発したが、男には、彼が本当は雨の中へ出ていきたいわけではないことが何となく分かっていた。意地っぱりなこの少年には、自分から「もう少しいてもいい?」と口にすることなどできないのだろう。
ゼレックは、できるだけ声を荒げないよう気持ちを落ち着けて、シスリルを説得した。雨は、その声すら、まるで紙を引き裂くようにたやすく何度もさえぎって、激しく振り続けていた。
少年はついに折れて、
「分かった」
と、ふてくされた顔でうなずいた。
ゼレックは、
(扱いにくい子だな)
と思いながらも、ほっと胸をなでおろす。
「よかったら、泊まっていくといい」
押しつけがましくならないようにさりげなく付け足すと、シスリルは無言で首をたてに振った。
表情に出すことはしないが、心の底ではうれしいのだろう。さっきより少し、瞳の印象が和らいでいる。誰だって、雨に打たれながらぬかるみを駆けたりしたくないだろうから、当然といえば当然なのだが。
再び部屋に戻って、机のそばのイスに腰を下ろした少年に、ゼレックは尋ねた。
「雨のときにはいつも、がけの下のどうくつで過ごしていると言っていたが、かぜをひいたりしたらどうしていたんだね」
母親を火事で亡くしてから数年、シスリルは誰の手も借りず、一人で生きてきたというが、それは、想像以上に過酷な生活だったのではないだろうか。
男の心配をよそに、少年は、そんなこと何でもないというような顔で、軽やかに聞き返す。
「かぜのときとか、病気のとき?」
ゼレックがうなずくと、さらりと続けた。
「だいたい、じっとしてたら治ったよ」
ゼレックからすればとても痛々しく感じられるその状況も、彼にとっては、ささいなハプニングでしかないのだろう。
「これからは、私が病院に連れていってあげるから、具合が悪くなったら言いなさい」
男は、彼にできるだけのことをしてやりたいと思っていた。
「そうとう悪くなったらね」
少年は、いたずらっぽく笑って約束する。
ゼレックは、
「できればそのもう少し前にな」
と、苦笑して付け足した。
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